寝太郎ブログ

12月1日新著発売→『僕はなぜ小屋で暮らすようになったか 生と死と哲学を巡って』

薪ストーブの一酸化炭素中毒についてなど  


狭い小屋での薪ストーブ。心配なのが一酸化炭素中毒。特に一酸化炭素は空気より軽いため上に集まる、となると熾火になった就寝時のロフトなんかが心配である。

おまえの小屋は心配するほど高気密に作られてないだろという指摘はさておき、念には念を入れて、念々々のため、一酸化炭素検知器を設置してある。いくらか忘れたが、そんなに高いものではない。モノの良し悪しはわからない。

P1010483.jpg

この検知器、ちゃんと働いてくれるのはいいのだが若干ワーカホリック気味なところがあって、ちょっとカセットガスコンロを使っただけでアラームが鳴るし、煙突が強く機能していない状態で薪ストーブの大扉を開けてもやはりアラームが鳴る。一酸化炭素は主として不完全燃焼で生じるものであるから、なぜ扉を開けた時に鳴るのかはよくわからないが、とにかく経験上は鳴る。しかも、非常にうるさい。静かな雑木林の中であることを加味しても、耳をつんざくようなピープ音が鳴る。


肝心の就寝時だが、薪の量や火力にもよるが、やはり少しは一酸化炭素が漏れるときがあるようす。普通に使っていれば鳴らないが、たとえば、一例として、ちょっと焚きすぎて寝てしまい汗だくで0時頃に起き、その後熾火にして4時間ほど経ち、熱も弱まり煙突がそこまで機能しなくなった頃に、アラームが反応した。つまり、夜中にピーピー叩き起こされるのである。数値はだいたい50ppm。参考までに、

100ppm 数時間の呼吸後でも目立った作用はない。
200ppm 1.5時間前後で軽度の頭痛を引き起こす。
400~500ppm 1時間前後で頭痛、吐き気、耳鳴り等を起こす。
600~1000ppm 1~1.5時間前後で意識を失う。
1500~2000ppm 30分~1時間前後で頭痛、めまい、吐き気が激しくなり、意識を失う。
3000~6000ppm 数分で頭痛、めまい、吐き気等が起こり、10分~30分の暴露で死亡。
10000ppm 直ちに意識喪失、死亡。
参考:理研計器

また別のページでは、一酸化炭素濃度をc(ppm)、暴露時間をt(hr)として、ct<300では影響は少ない(参考:日本中毒情報センター)ということらしい。

50ppmという数字をどう判断していいのかわからないが、まあそれがずっと続くわけではないし、許容範囲なのかなというところである。

P1010475.jpg

さて、これまで一度も大きなゴミを捨てたことが無く、捨てられないゴミは外でブルーシートにくるんで蟻や蛇にお宿を提供したりしていた。たとえばカーペット、コンクリ片、ペール缶、穴だらけのブルーシートなどなどである。さすがにいろいろ増えてきて、一念発起してリヤカーでゴミ処理施設に捨てに行くことにした。

P1010466.jpg

連結はこんな感じである。ちょっと頼りないが、まあ一日だけのことなので。

P1010479.jpg

ゴミの処理費用は、60円/kgだった。あぁすっきりした。

P1010454.jpg

P1010482.jpg

それから薪を補充したり。

P1010450.jpg

澄んだ空気と山の稜線の美しさ、雑木林の落ち葉を踏みしめる感触、ときおり横切る動物、生の火と煙の匂い、夜の静けさ、そういうものが一挙に手に入ったので、人以外のことに関してはもう、どこか遠くに何か美しいものを求めたりすることは無くなった。そのへんの雑木林というのは平凡なものだから写真に撮って誰かにその美しさを納得させることのできる類のものではないが、だからこそ無限に興味深く、無限に美しい。ちょっとこじつけだが、実存としての雑木林と、本質としての雑木林。まあこうやって言葉にして伝えることでせっかくの実存が少し削がれてしまうのだが、それは読者の皆さんへのおすそわけということで・・・




このエントリーをはてなブックマークに追加

category: 薪ストーブ

Related Posts Plugin for WordPress, Blogger...

仏教は何も教えてくれない  


山下良道の「雲としての私」と「青空としての私」という概念がある(参考『青空としてのわたし』)。「雲」というのは現世的な物語、価値判断、煩悩、人としての特徴などのあれやこれやで、しかしその雲を取り除いていってもやはり「私」があって、それが「青空」と表現されている。「青空」は哲学で言う「実存」の概念に近いが、「実存」のほうは文脈によって多様な意味を持つので、「青空」というのはとてもわかりやすい言葉だと思う。この記事はこれらの概念に対する批判ではないが、タームとして便利なので使わせていただく。

仏教の問題意識、克服すべき課題というのは徹底して「雲」のほうに向けられていて、雲はまさにあのとおり生じては形を変えて消えてゆくような無常なものですよ、自分と雲とを同一視してはダメですよ、というのが仏教の基本的な教えだと思う。

一方「青空」のほうはほとんどノータッチで無条件に崇め奉られているのだが、僕は本質的な問題(世界がどうなっているかという問題と生きる上での問題と両方)は「青空」のほうにあると思う。なぜなら、「死」というのは「雲」の対極にあるものではなく「青空」の対極にあるものだからである。「雲」が無くなるということが耐えられないのではなく、何もないはずの「青空」がさらに何もなくなるのが耐えられないのである。

もちろん、この考えが矛盾を含んでいるのはわかっている。「雲」の外に出ることはできても「青空」の外に出る(=死を思う)ことはできないからである。出たと思っても、意識して考えている限り、やはりそこは依然として「青空」なのだ。しかし、それでも、出てしまう、考えられないはずの「真の無」というものを考えてしまう、それが人間である。だから『〈仏教3.0〉を哲学する』にあるように、「実は人は死ねないのだ」というような納得の仕方は理屈としてはわかるけれども僕には(今のところ)できない。

個人的なことを言えば、幼いころに「死の観念」に思い至って以来、その「死の観念」の対極にある「私」、すなわち「青空としての私」というものは全く変わらない。それ以前の「自我」ははっきりしなくて、そのときそのときの断片的な記憶があるだけで、まさに「変わる」とはああいうことを言うのだろう。だから「死の観念」と「青空としての私」というのはセットなのだ。もちろん僕には「雲」が「青空」を覆うくらいたくさんあるし、それによって悩んだり成長したり大人になったり変わったりする。つまり自分の「青空」に流れている「雲」に関して達観しているわけでも何でもないが、究極的には「雲としての私」の問題なんてどうでもいい。根本のところで昔のまま変わっていない自我、自分にとってそれこそが「自我」であり、そこにこそもっとずっと深刻な問題があるのであって、仏教における「雲としての私」に関する無我や無常の教えなどは、まあその通りだけど、というくらいのものである。むしろその「深刻な問題」にとっては、一番単純な意味での煩悩や執着心が救いになったりもする。

「雲」はとても良い形をしている時もあれば、悪い形をしている時もある。悪い形をしている時、これを消去してしまいたいという感情が、ときとして自らを観念的ないしは肉体的に「死」に接近させることがある。しかしそれは全くの錯誤であって、雲を除けば青空があり、死というのはさらにその青空の対極にある。だから、自己消去的な感情に襲われた人はまず、死ではなく青空へと、実存へと、生そのものへと向かうべきである。青空になったら人生の悲喜交々も無くなってしまうではないかと案ずることはなく、依然として雲はあったりなかったりする。だから、青空へと向かうことによって何かを失うことはない。

雲が消えることと青空が消えることの区別がつかないような状態は、主として、雲と青空とを混同してしまっていることによるのであって、これは確かに仏教の否とするところであるし、特に現代においては意味のある教えだろうと思う。ところが、釈迦が四苦、すなわち「生老病死」などというときの「死」はまさにその錯誤としての、現世的な苦としての「死」しか扱っていないように思える。だからいとも簡単に「わが解脱は不動であって、これが最後の生であり、もはや再生することはない」などということが絶対善として挙げられていて、肝心の「真の無」については一言たりとも言及されない。換言すれば、確かに「青空へと向かうことによって何かを失うことはない」のだが、これは「青空に気付くことで全てを失う」ことと背中合わせなのだ。

結局、仏教は何も答えてくれないのである。




このエントリーをはてなブックマークに追加

category: 仏教

Related Posts Plugin for WordPress, Blogger...

プロフィール

最新記事

著書

カレンダー

カテゴリ