寝太郎ブログ

2018年4月11日文庫本発売→『スモールハウス 3坪で手に入れるシンプルで自由な生き方 (ちくま文庫)』

心ここにあらずの日々  


・アパートを借りた

今年に入ってから都心にアパートを借りた。家賃32000円、洗濯は手洗い、給湯器があるのでシャワーを自作した。

自分の自作小屋は、社会の物語とは切れている。だから、小屋という日常生活がそのまま自分一人の脳内である。したがって、自分の中で時間が止まれば生活全体の時間が止まってしまうし、自分が悲しければ生活全体が悲しくなるし、邪魔がない代わりに逃げ場もない、そういう場所である。何かを根詰めて考えたときにリフレッシュすることができるような「日常生活」がない。

では、都会の暮らしはどうかというと、空虚である。小屋で暮らしている時よりもずっと空虚である。確かに多少の逃げ場はあるかもしれないが、逃げれば逃げるほど自分が自分であるという感覚がなくなる。何から逃げるのか。「自分の死」と「他人の悲しみ」である。逃げている限り、何をしていても他人事のようである。心ここにあらず、現実感なく、ぼんやり生きている。

つまり、第一に、自分自身であることは苦痛であり、第二に、自分自身でなければ虚ろである。そして、第三の選択肢はわからない。


・バイトを始めた

部屋なんぞ借りてしまったので、仕方がないからいくつか不定期のバイトを始めた。

清掃のバイトは最も自分に合っている。清掃は、無心でできるわりに同一工程の反復のような単純作業でもない。また清掃は、金持ち相手のしょうもない商売ではなく、食糧生産や医療と同様、かなり原始的なレベルで必要とされる仕事である。

他に、ストレスしかない仕事もある。会社というのはなんにせよ、営利追求集団である。あの笑顔も、あの情熱も、あの言葉も、全部「ビジネス」が背景にあるのだ。ビジネスマンと付き合うのは虚しく、そして心底疲れる。そもそも自分は「こんな仕事必要ない」から始まるので、仕事も人間関係もうまくいくはずがない。それでも顧客や関わる人々が喜んでくれればと思ったが、自分は人間にモテないし、自分には他人に分け与えられるような熱量はないのだと思い知った。今は何も期待せずにやっている。


・年齢が進んだ

自分には、いわゆる青年期、中年期、あるいは壮年期というものがほとんど無かったようにも思う。少年期が終わるかなと思っていたら、老年期の入り口が見えていた。自分は昔から、周りが妙に大人びて見える傾向にあり、つい最近までは20歳以上の人はみんな自分より年上に見えたものだが、この頃は外見においても内面においても、ああ自分はもう若くないのだと感じることが多くなった。そんなことを思っていたのも束の間、もう若くないどころか、60代くらいの人はみな、僕よりよほど自分の心身に自信を持っているように見える。

年齢が進むにつれて自分ができることの可能性が狭まり、若い頃のように「なんでもできる可能性」に惑わされることが少なくなった。これとこれをやってきた、したがって、これとこれをやって生きていくしかない。数論を一から習得して何か定理でも証明できればただ生きるだけではない素敵な人生になるかもしれない、というような馬鹿なことを考えることもなくなった(実はかなり最近まで気が付くとそういうことを考えていた)。老年期とは何かと言えば、そうした衰えや、可能性の狭まりや、虚無感などに抗っていた中年期をこえて、それらと一体化していく過程だろうと思う。


・小屋で暮らす

小屋は「いつでも帰れる場所」だということをよく書いてきたが、具体的にはどういう意味だろう。もちろん経済的な意味もあるが、どちらかというと「精神的なスイッチを切って無になれる場所」という意味である。しかしこれは、スイッチオンで走り続けなければならない場所に対するアンチテーゼとして初めてありがたみがあるもので、生活と人生の全体を長く小屋に閉じ込めてしまうと、スイッチを切る意味もなくなる。人は全き無のうちに生きることはできない。そういう意味で、僕は小屋へ帰ることが怖いと思う期間がかなり長くあった。

・・・などと言いながら、最近また小屋に帰ってきて水を汲んだり土をいじったりなどしていると、すこぶる体調がいいから困ってしまう。体調だけではない。頭も冴えてくる。静かな夜には考えがスルスルとまとまってくる。寝つきもいいし、寝起きもいい。あの首や肩のだるさはいったいどこへ行ったのだろうか。逆に都会で生活していると、便利で快適なはずなのにどうしてあんなに体調が悪いのか不思議である。


・畑を耕作した

ジャガイモ40kgを500平米に植え付け、大豆も350平米播種。草刈り機があるのになんとなく鎌で草刈りを始めてしまい、気が付いたら一反の除草を終わらせていた。なんとなく始めたときに軍手をしていなかったので、これまた最後まで素手だった。手が傷だらけである。こういう馬鹿なことをたまにやってしまう。自分の素手がどこまで耐えられるのか楽しんでいるような気もする。

近所の人が言っていたが、大豆を枝豆の段階で収穫するのは簡単だが、大豆まで待つのは虫や病気のせいで難しいらしい。考えてみれば大豆は人でいう老年期だが、枝豆は青年期なので、健康で元気なのだろう。今年もなるべく枝豆の時期に収穫してしまおう。

枝豆は連作できないらしいので、昨年枝豆やった場所をどうするか迷った。ジャガイモは何度か土寄せしたほうがいいくらいで、そんなに手間がかからないだろう。収穫後の鮮度保持もシビアではないので、ある程度ストックしてから発送できるのが良い。ただ、ホームセンターで買うと種芋代が馬鹿にならない。サツマイモやサトイモは放置可能だが、やはり種芋(蔓)代が馬鹿にならないし、どちらも大量に食べるものではない気がする。大根は真っ直ぐにならないし、重量比単価が安く通販には向かない。トウモロコシは背が伸びるので昨年強風で倒れた。この中だったらジャガイモだろうか。種芋もネットで比較的安く手に入る。というわけで今年のラインナップは枝豆&ジャガイモ。オクラ、インゲンも少しだけ播種、ナス、トマト、かぼちゃは自給用にそれぞれ苗を一本だけ植えた。


・書くこと

何の予定も目標もないが、相変わらず何になるともわからない文章を書いている。思いつくままに断片を書き連ねてストックしてゆくのはあまり良いことではない。そうして積み重ねた断片的な言葉の大半は、結局何にもならない。いつかまとまった文章を書くときに材料になるかと思いきや、断片的な言葉の蓄積のせいでむしろ筆が重くなることすらある。書くときは、茫洋と書くのではなく、なるべく目的をもって最初から何かの形にするつもりで書いたほうが良い。わかってはいるのだが、昔からの癖で何になるともわからない断片を書かずにはいられない。吝嗇と書くことは、全く治らない。

最近よく考えていることは、自分の虚無の根源は何なのか、必然なのか偶然なのか、ということである。虚無は、人間存在そのものから必然的に生ずる問題なのだろうか。ずっとそう思っていたのだが、最近は、実はそうでもないかなと思うところもある。生死の問題を突き詰めて考える人でも、「虚無に陥る」という事態を免れているように見える人はたくさんいるからである。そういう人と自分との違いは何だろうか。虚無は「生き方」の問題ではない、と言い切れるほど、自分は清く正しく生きてこなかった。だから、自分の境遇であるとか、生活環境であるとか、人間性であるとか、過去の行いであるとか、時代背景であるとか、精神状態であるとか、思考過多であるとか、「いま」「ここ」の実存的態度を欠落させる偶然的な要因を逐一紐解いていって、虚無の根源をはっきりさせたいのである。こうして思考することや書くことが、自分の頭の中の時計を止めて、余計に虚無に結び付くのだと知りつつ、この数年間、不安に駆られて夜な夜な書き殴っていたのは、ほとんどその種のことである。

そもそも、今この瞬間に身に迫る虚無を感じている人、自分の頭の中から出なければ気が変になりそうな人ってどのくらいいるのだろうか。現実社会ではそんなことを話す人は滅多にいないし、逆にインターネットでよく流れてくる言葉は妙に軽く聞こえることがある。どのくらい真摯なものか判断がつかない。総じて、どのくらいの人が、どんな種類の虚無を、どの程度感じているか、全く判断がつかない。まあ、他人のことは置いておいて、とりあえず、自分である。自分が生きてゆくために、自分の虚無について考えなければならない。




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最近思うこと、文庫『スモールハウス』の発売に添えて  


文庫版『スモールハウス 3坪で手に入れるシンプルで自由な生き方』が筑摩書房より4月9日~11日あたりに発売になります。

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現実はひとまず横に置いておいて、僕個人が理想とする生活だけを言うならば、平穏で、自由で、静謐な生活、僕がよく「静謐」という言葉を入れるのは、ただ単に自由なだけでなく生活のどこかにちょっとした緊張感が必要だからなのだが、ともかく、そんな生活のための道具装置として、小屋ないしはスモールハウス以上のものは考えられない。必要なものは、多少の衣服と、ストーブと、きれいな水と、幾らかの田畑と、小屋。加えて朝の目覚めが鶏の鳴き声であれば百点満点である。この画は中学生の頃から変わっていない。そしてこの個人的な理想が全世界に拡張されたとして、いったい人類から何が失われるのだろうか、とも思う。体の弱った人を除く全ての人が等しく質素に暮らす。教育は小学課程くらいまでで充分だろう。それ以上は学問をやりたいもののみがやればよい。娯楽と芸術の大半は自然そのものに親しむことに取って代わられる。何よりこの不可解な物、規則、計算の数々は不要になる。

そうは言っても、僕らは現実社会の中で生きてゆかなければならない。周りが質素な生活をしている中で質素な生活をするよりも、自分だけが質素な生活をすることのほうが格段に難しい。本書『スモールハウス』では、そこのところをどう肯定的に転化させたらよいのか、現行の社会の中でやるからこその強みというものに、要所要所で注目している。一言でいえば、「共産主義は個人が富を搾取して抜きん出ることを禁じているのに対し、資本主義において周囲と同水準の富の追求を放棄して逸脱することは禁じられていない(p.153)」にもかかわらず、その恩恵は享受することができる。昨日僕はスーパーで豆腐を買ったのだが、あんなにおいしくて、栄養価が高くて、手がかかるものを、滅菌密封された状態で300g29円で買えるのは奇跡なのである。まあこういうことをいちいちはっきりと書くと、また「矛盾してる!」とか言われたりするわけだが。

さて、小屋暮らしだけでなく広くオルタナティブライフスタイルと呼ばれているもの、特に僕が念頭に置いているのは低消費生活なのだが、これに紛れもなく純粋な希望とともに突き進む人に関しては、生き方を薦めるというおこがましい話ではないが、少なくとも否定する理由は何もないように思う。たとえば既に家庭を築いていて家族の志が同じ方向を向いているとか、最近話を聞かせていただいた人では旅や山登りが好きで仕方がないとか、社会問題や環境問題に本気で関心がありアクションを起こしたい人であるとか、とにかく生活自体とは別の動機や文脈がある人、他の物語の中に低消費生活を位置づけられる人、これはもう自由にやれば良いと思う。小屋暮らしは素晴らしいものだし、きっと役に立つ。

ただ、単に何もかも煩わしくて、生命活動を縮小したい、社会と距離を置きたい、目的もなくひたすら怠惰でいたい、人生を断捨離したいというような人、これはまさに小屋を建てていた頃の僕自身なのだが、そういう逃亡志向の人に対しては、僕は今は「やめたほうがいいのでは」と言うことにしている。その時代、社会、他人が紡ぎ出してくれる物語から距離を置いて、自分一人で生きるようになるとき、最も問題なのは、不安、恐怖、罪悪、自己否定といったマイナスの感情に対して逃げ場がなくなることである。人生上の大抵の問題に関しては、そういうものだったと自分自身が諦めさえすれば解決する。しかし、諦観のような手緩い方法では太刀打ちできない問題もある。一つは、自分自身の死の観念であり、もう一つは、他人の苦しみ悲しみである。

まずは、自分がこの時代に生まれたという事実、そしてこの世に生を受けてから出会った人々のことを大切にして、時代を感じながら生きていって欲しい。まあやめたほうがいいと言ってもやる人はやるわけで、やってみて自分で判断するしかないわけで、まさに僕もそのような人種なのでそれはそれで親近感があるのだが。

最近強く思っていることなのでつい書いてしまったが、本書『スモールハウス』はもう少し気楽な内容なので御心配なく。自分のような自作小屋生活はマイノリティの中でもさらに辺境に位置しているという自覚があり、いつもどの視点からものを書いていいのか迷う。まあ辺境と言っても、最近は生活の比重が東京に傾き、「別荘持ち無職」くらいの比較的穏やかな感じになってきただろうか。畑が始まったらどうなるかわからないが、いずれにしても定職につかずに生きてゆく方法の模索は続く。






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