寝太郎ブログ

2月10日文庫本発売→『自作の小屋で暮らそう: Bライフの愉しみ (ちくま文庫)』

どうしていいかわからない!(直観主義論理の自然演繹では矛盾から如何なる命題でも導出することができる)  


論理学の基本的な証明体系であるゲンツェンの自然演繹には、矛盾(論理記号は⊥)からは如何なる命題でも導き出せるという変な規則がある(より正確には、自然演繹の中に、このような規則を含む直観主義論理と呼ばれる論理体系がある)。記号的に書くと、

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ちなみに、「Aであり、かつ、Aでない」からは矛盾を導出することができる。

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ところで、人間は、意識の内部、時間性の内部、人生の内部にいながら、同時に、その外部に立ってそれを理解し、俯瞰し、思考することができる。ここに、人間存在の根本的な矛盾がある。

自分の人生の内部にいながら、自分で自分を見渡す、つまりその外に立つという矛盾から、死の不安が生まれるのです。この不安は、内側から生きるとき永遠として思われる生と、外から見るとき有限であらざるをえない生との衝突から生まれます。ジャンケレヴィッチ『死とはなにか』p.21

どうやって生きていったらいいのか考えていると、結局のところどんな生き方も許されていることになり、その自由ゆえに逆にわけがわからなくなる。そういう思考パターンを(似非)自然演繹で表すと、

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最初から矛盾を内包しているような存在(=人間)は、必然的に、どうしていいのかわからない。




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反オリンピック諸相  


新潟でゲストハウスに入ってから、大して汚れてもいない体をシャワーで洗って、大して汚れてもいない服を洗剤と洗濯機で洗う日々である。歩き旅をしているときは心地よい緊張を保っていた神経も、マットレス付きのベッドによって完全に弛緩し、また屍の如く天井を凝視する毎日。たまに近くの図書館へ行っても頭が鉛のようで思考が微動だにしない。一時間もしないうちにコンビニへ行ってアイスを買ってゲストハウスへ戻ってソファに倒れ込む。食欲は湧かず、必要所要量どころか基礎代謝分のカロリーを得ているかも怪しい。

ソファに埋もれながら久しぶりに漫画というものを読んだが、登場人物の見分けがつかず、誰が誰と戦っているのか、今何に向かって動いているのか、全然入ってこない。「物語」が響かない。響かないから、理解できない。ちなみに『花の慶次』という漫画である。もう内容はほとんど覚えていない。たしか大きな馬がいたはずである。

物語と言えば、オリンピックである。リビングに大きなテレビがあるのでよく見ている。もしかしたらゲストハウスの人間の中で一番見ているかもしれない。100メートルを何秒で走るかという具体的な行為や記録が軸になっている以上、人の心を動かすか否かが全てであるような完全な芸術とまではいかないが、考えてみると100メートルを9秒や10秒で走れたからなんだという話で、「夢」「感動」「力になる」といった物語語が跋扈するオリンピックは、やはりその大部分が物語によって演出され肉付けされて成り立っていると言わざるを得ない。

オリンピックそのものよりも、オリンピックを見た諸賢が何を言うかを見るのがおもしろい。

スポーツ選手は何も偉いことしてない。こういうものを疑う姿勢はなくしたくない。鶴見済 (@wtsurumi) 2016年8月16日

鶴見済さんはいつもの調子である。

オリンピックなど実利の目で見れば、単なる浪費であり、何の役にも立たない。もちろん「経済効果」などという言葉はまやかしである。それが金を生み出したり賞賛の的になったりするのは、そもそもそれが夢の対象だからであり、ということは夢が夢を生み出し、価値が価値を生み出し、物語が物語を生み出す手品のようなものである。余談だが、十代の頃にスポーツでそこそこ活躍した経験を持つために、つまり夢が夢を生み出すような、0が10にも100にもなるような空間に長くいたために、1を得るには1が必要であり、1には1しか返ってこない普通の社会に出て少しおかしくなってしまった人を何人も知っている。

オリンピックが厄介なのは、まるでそこに実があるかのように互いに騙し合いながら進んでゆくところである。僕は花火みたいに潔く最初から何の意味もありませんと開き直っているのは結構好きなのだが。ヒューン、ドッカーン。

それから、逆に、物語が足りないという人たち。こんなちっぽけな物語で俺の血を滾らせようなど百年早いわ、という人たち。「オリンピックつまんない」という呟きの大半はこれであるように思う。オリンピックはつまらないが、もっと面白い物語を知っている、もっと面白い物語があるはずだ、という人たちである。オリンピックには直接関係ないが、丸山健二の一節を思い出した。

私は祭りの類が嫌いだった。その程度の変化と刺激に酔い痴れて興奮し、人生を謳歌できるおとなを見かけるたびに失望感が深まってゆくのだった。/『生者へ』p.39

あるいは、人為的に作られたルールが人をこんなにも熱くすることを、端的に不思議だなと面白がる哲学者たち。

オリンピックは不思議だ。十分に感情移入して試合の展開に一喜一憂したりもできるにもかかわらず、他方ではどうしても、この人たちはいったい何をやっているのだろう、必要もないのにわざわざ人工的なルールを作って見知らぬ外国人と無意味に超真剣に争いあったりしちゃって、という疑問が去らない。/永井均 (@hitoshinagai1) 2016年8月15日

いずれも単なる表面的なニヒリズムやシニシズムに留まらない。というのも、ある物語の内部にいてその流れの中に身を置けると同時にそれを外部から冷徹に理解することができる人間の魔訶不思議な二重性が、生と死の二重性と直結しているからである。

もちろん、この世の中そのものに対する疑問でもあるわけだが。/永井均 (@hitoshinagai1) 2016年8月15日

ひとたびその風(ペシミズムの寒風)に晒されると血の騒ぎなどひとたまりもなく凍てつき、もしかするとこの世は生きるに値しないのかもしれないという、あの厳然たる答がしばらく居座り/『生者へ』p.38

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夜になるとようやくかろうじて散歩する程度の元気が出てくる。茶碗一杯のご飯を胃に詰めたいと思う程度の食欲も出てくる。夜というのは不思議な時間である。毎日が昼ばかりだったら生きてゆくのはずっと困難だったはずである。




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