寝太郎ブログ

2018年12月6日雑誌発売→『kotoba(コトバ) 2019年 冬号』特集・孤独のレッスン

死、書くこと、考えないこと  


 死ぬことが怖い。死ぬこと、つまり永遠の存在消滅。何を考えていても、結局、ここに戻ってきてしまう。もっと現実的に、どうやって生きてゆくか、という類のことを考えていても、次の瞬間には「そんなことはどうでもいいんだった」と、それまで考えていたことが死の観念によって一掃される。そして振りほどくように頭を空っぽにして、もぬけの殻のような時間を経て、また「どうやって生きてゆくか」と考え始め、ずっとこの繰り返しである。
 このことについて書いていいのか、書いていいならいつどのタイミングでどこに書いていいのか、書いたことを後悔しないのか、自分には全然わからない。けれども、この恐怖ないしは虚無という肉体的な実感を無視して何か考えたり書いたりしようとしても、なにもかもが断片的に感じられ、次の日には忘れてしまっているか、どうしてそんなことを考えていたのかわからなくなってしまっている。何かを書くときに一人称的な肉体感覚を話の糸口とすることは甘えだと思うが、そうでもしないと、些末なことも重大なことも何もかもがのっぺりと等価に感じられ、収拾がつかなくなってしまうのである。
 元来、死について考えることは、生きることを断片化してしまう。ずっと目的をもってやってきたはずの大小のことが、どこにも繋がっていないのだと知って、日常のあらゆる行為が、言葉が、バラバラになってしまう。生によって紡がれるはずの一つの物語を断片化してしまうのが死である。けれども逆に自分の場合は、まったく忌々しいことに、長く死について考え感じてきたので、少なからず死というものを幹として思考や行動が枝葉を広げてしまっており、「死について考えないようにすること」のほうが、自分の思考や記憶をバラバラにしてしまう。つまり自分は、死について考えようと考えまいと、どちらにしても、一つの整合的な存在として生きられない運命にあり、引くも地獄、進むも地獄、それがどうにも苦しい。
 書くことはひとつの救いである。なぜならそれがたとえ整合的でない、バラバラで矛盾したことでも、一枚の紙の上に、あるいは一冊の本の中に書けるからだ。それを持っていれば、いくらか安心する。
 最近ようやく少し読んだり書いたりできるようになってきたが、ずっと言葉を扱うのがしんどかった。せっかく頂いた大小の執筆の話も保留するしかなく、何か書けたら見ていただけますかと言ったきり。三冊目の本は無事に初版完売したようだが、増刷するほどの売れ方をしているわけでもなく、絶版ということになるだろうという話だった。寂しいものである。
 肉体感覚を思想的に昇華させることは、生産的な行動の一つであろう。つまり、「死が怖い」ではなく、「やがて死ぬことを知りながら生きている人間存在の矛盾」といった具合に。その矛盾は元を辿れば、人間が宇宙開闢の意識存在であると同時に、意識している自分を意識する神のような視点を持ちうることの矛盾であり、さらにその矛盾を見つめてゆくと単なる人間の認識のみに関わる(認識論的な)矛盾ではなく、世界そのものの(存在論的な)矛盾へと繋がっている。少なくとも矛盾した我々は、ただそこにありのままに存在している単一の世界というものがどういうものか想像することすらできない。古今東西の哲学はこのことを手を変え品を変え言っているものと理解している。しかしそうして思想的に遠くまで行って何か生産的なことをした気がしても、次の瞬間には、以前とまったく同じ場所ー恐怖と虚無ーに佇んでいることを見出して呆然とするのだ。
 「生産的な行動」の虚しさに打ちひしがれると、負の感情の渦に引きずり込まれる。物事を人生の内部の問題としてしか理解しない世間に対する絶望のような寂しさのような気持ち。自分の人生、あるいは他人の人生の「内容」が、良いか悪いか、恵まれているかそうでないか、幸せか不幸か、成功か失敗か、そういう物語語しか話さない世間に対して感じる孤独な気持ち。あるいは、それと相反するようではあるが、強迫的に死について考えてしまう原因はやはり自分の人生の内部にある(あった)のではないか、といった自己否定、後悔の類。大きすぎる生を戒めるために虚無が膨らみ、いくつかの要因によって生が萎んだとき虚無だけが残ったのではないか。しかし、仮にそうであったとしても、つまり、自分の生き方が間違っていたから死について考えてしまうのだとしても、それでもなお、死の問題、永遠の存在消滅の問題は、厳然として残っている。生き方が正しいかどうかなど、そんなことはどうでもいいのだ。いやしかし、この肉体的な苦痛の原因は死の問題そのものに起因してはいないだろう。何らかの現世的な理由があったはずである。いや、自分個人の人生の内容が苦痛であるか否かなんてどうでもいいのだ。やはりいつか死んでしまうのだから。いや、さしあたって生きてゆくためにはそのどうでもいいことが重要なのだ。そのどうでもいい「人生の内容」を良くしようとすることが唯一の生きる術なのだ・・・堂々巡りである。
 最近はよく東京でウーバーイーツというフードデリバリーの自転車を走らせるようになって、これが一つの逃げ場になっている。自分には、この仕事が良いか悪いか、つまり労働条件がどうとか、フードデリバリーが来るべきインフラのひとつとなるのかとか、これをすることで世界が良くなっているかとか、そういう難しいことはよくわからない。ただ、依頼を受けて自転車で走っている時は何も考えなくてよくて、それがものすごく気持ちいい。お金が増える増えない、どのくらい効率的に増える、という単純なことを考えているのも、何も考えていないのとほぼ同じで、気持ちがいい。本当に危険なくらい気持ちがいい。家に帰ってシャワーを浴びて一段落すると、また走りたくなり、明日になるのが待ち遠しいとすら思う。「何も考えない」ということをこんなにも求めていたのだなと実感する。
 「何も考えない」ことが自分の抱える問題の解決にならないのはよく知っている。むしろ「何も考えない」ことを万能薬のように称揚する仏教的なるものにはずっと反感を覚えてきた。ただ自分の場合は、解決のない中でそれでも生きてゆくための現実的な方法として、つまり対症療法として、あるいは道具として、今はなるべく何も考えない時間を作らなければならないように思う。自分は無趣味なもので、趣味に没頭するような「何も考えない」時間を作ることがとても難しかった。だから「良い趣味ができた」とも言える。頭を空にして核心的な問題を考えないようにするために、これまで様々なアルバイトや畑、歩くこと、数学といろいろ試してはやめてしまっていたが、果たして今回はどうなるだろうか。
 走っていると気持ちがいい反面、止まるのが怖い。依頼が来ないときは闇雲に走り回っても仕方が無いので止まることもあるのだが、そうするとこれまで猛スピードで動いていた風景が静止し、ずっと耳を覆っていた風切り音が止み、血の巡りの良くなった体だけがただそこにポツンと佇むことになる。そうするとまたいろいろと考えてしまう。
 自分は、日常が欲しいのだ。そして日常を見失ったとき助けになるのは、たくさんの人が同じ日常を共有しているということ。自分もその共有された日常の波に無意識に乗っているということ。自分が小屋暮らしを続けられないと思った最大の理由。自作小屋の暮らしは、自分一人の意識が、自分一人の日常が、自分一人の正常さが、すべてである。それが崩れたときにすがるものがない。これを弱さだという人は、本当に目の前がグラグラした経験や、思考そのものに吸い込まれるような危機を覚えたことが無いのだろうと思う。もちろん、他人と共有された日常も盤石ではない。けれども、生きてゆくには、「考えることをやめる」「他人の意識に身を委ねる」といったような非本質的な助けが必要なのだ。
 春も幾日か小屋へ帰った。いつも通り小屋の内外をきれいにして、湧き水でコーヒーを飲み、来し方行く末を思い、静かなロフトで深く眠って、そして東京へ戻ってきた。特筆すべきことはなにも無い。宿泊費無料の小旅行と思えば最高であるが、そこには「暮らし」としての矜持は無い。そういえば、バイクの整備マニュアルを購入し、徹底的にバイクを直すのが春のメインイベントとなる予定だったが、肝心のマニュアル本を東京に忘れてきてしまった。なんだか最近そういうのが多い。前はそういう類のミスは滅多にしない人間だったのだが。
 僕はとにかくゆっくり生きてゆきたい。「ゆっくり生きてゆくことで得られる何か」を謳うつもりは毛頭なくて、忙しくしている人は忙しくしている人で充実しているということはよくわかる。けれども、自分には向いてないと思う。自分には、節約しながらゆっくり生きてゆくのが性に合っていて、将来的にも田舎か都会かはわからないが、そういう生活をしたい、そういう生活しかできない。



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心ここにあらずの日々  


・アパートを借りた

今年に入ってから都心にアパートを借りた。家賃32000円、洗濯は手洗い、給湯器があるのでシャワーを自作した。

自分の自作小屋は、社会の物語とは切れている。だから、小屋という日常生活がそのまま自分一人の脳内である。したがって、自分の中で時間が止まれば生活全体の時間が止まってしまうし、自分が悲しければ生活全体が悲しくなるし、邪魔がない代わりに逃げ場もない、そういう場所である。何かを根詰めて考えたときにリフレッシュすることができるような「日常生活」がない。

では、都会の暮らしはどうかというと、空虚である。小屋で暮らしている時よりもずっと空虚である。確かに多少の逃げ場はあるかもしれないが、逃げれば逃げるほど自分が自分であるという感覚がなくなる。何から逃げるのか。「自分の死」と「他人の悲しみ」である。逃げている限り、何をしていても他人事のようである。心ここにあらず、現実感なく、ぼんやり生きている。

つまり、第一に、自分自身であることは苦痛であり、第二に、自分自身でなければ虚ろである。そして、第三の選択肢はわからない。


・バイトを始めた

部屋なんぞ借りてしまったので、仕方がないからいくつか不定期のバイトを始めた。

清掃のバイトは最も自分に合っている。清掃は、無心でできるわりに同一工程の反復のような単純作業でもない。また清掃は、金持ち相手のしょうもない商売ではなく、食糧生産や医療と同様、かなり原始的なレベルで必要とされる仕事である。

他に、ストレスしかない仕事もある。会社というのはなんにせよ、営利追求集団である。あの笑顔も、あの情熱も、あの言葉も、全部「ビジネス」が背景にあるのだ。ビジネスマンと付き合うのは虚しく、そして心底疲れる。そもそも自分は「こんな仕事必要ない」から始まるので、仕事も人間関係もうまくいくはずがない。それでも顧客や関わる人々が喜んでくれればと思ったが、自分は人間にモテないし、自分には他人に分け与えられるような熱量はないのだと思い知った。今は何も期待せずにやっている。


・年齢が進んだ

自分には、いわゆる青年期、中年期、あるいは壮年期というものがほとんど無かったようにも思う。少年期が終わるかなと思っていたら、老年期の入り口が見えていた。自分は昔から、周りが妙に大人びて見える傾向にあり、つい最近までは20歳以上の人はみんな自分より年上に見えたものだが、この頃は外見においても内面においても、ああ自分はもう若くないのだと感じることが多くなった。そんなことを思っていたのも束の間、もう若くないどころか、60代くらいの人はみな、僕よりよほど自分の心身に自信を持っているように見える。

年齢が進むにつれて自分ができることの可能性が狭まり、若い頃のように「なんでもできる可能性」に惑わされることが少なくなった。これとこれをやってきた、したがって、これとこれをやって生きていくしかない。数論を一から習得して何か定理でも証明できればただ生きるだけではない素敵な人生になるかもしれない、というような馬鹿なことを考えることもなくなった(実はかなり最近まで気が付くとそういうことを考えていた)。老年期とは何かと言えば、そうした衰えや、可能性の狭まりや、虚無感などに抗っていた中年期をこえて、それらと一体化していく過程だろうと思う。


・小屋で暮らす

小屋は「いつでも帰れる場所」だということをよく書いてきたが、具体的にはどういう意味だろう。もちろん経済的な意味もあるが、どちらかというと「精神的なスイッチを切って無になれる場所」という意味である。しかしこれは、スイッチオンで走り続けなければならない場所に対するアンチテーゼとして初めてありがたみがあるもので、生活と人生の全体を長く小屋に閉じ込めてしまうと、スイッチを切る意味もなくなる。人は全き無のうちに生きることはできない。そういう意味で、僕は小屋へ帰ることが怖いと思う期間がかなり長くあった。

・・・などと言いながら、最近また小屋に帰ってきて水を汲んだり土をいじったりなどしていると、すこぶる体調がいいから困ってしまう。体調だけではない。頭も冴えてくる。静かな夜には考えがスルスルとまとまってくる。寝つきもいいし、寝起きもいい。あの首や肩のだるさはいったいどこへ行ったのだろうか。逆に都会で生活していると、便利で快適なはずなのにどうしてあんなに体調が悪いのか不思議である。


・畑を耕作した

ジャガイモ40kgを500平米に植え付け、大豆も350平米播種。草刈り機があるのになんとなく鎌で草刈りを始めてしまい、気が付いたら一反の除草を終わらせていた。なんとなく始めたときに軍手をしていなかったので、これまた最後まで素手だった。手が傷だらけである。こういう馬鹿なことをたまにやってしまう。自分の素手がどこまで耐えられるのか楽しんでいるような気もする。

近所の人が言っていたが、大豆を枝豆の段階で収穫するのは簡単だが、大豆まで待つのは虫や病気のせいで難しいらしい。考えてみれば大豆は人でいう老年期だが、枝豆は青年期なので、健康で元気なのだろう。今年もなるべく枝豆の時期に収穫してしまおう。

枝豆は連作できないらしいので、昨年枝豆やった場所をどうするか迷った。ジャガイモは何度か土寄せしたほうがいいくらいで、そんなに手間がかからないだろう。収穫後の鮮度保持もシビアではないので、ある程度ストックしてから発送できるのが良い。ただ、ホームセンターで買うと種芋代が馬鹿にならない。サツマイモやサトイモは放置可能だが、やはり種芋(蔓)代が馬鹿にならないし、どちらも大量に食べるものではない気がする。大根は真っ直ぐにならないし、重量比単価が安く通販には向かない。トウモロコシは背が伸びるので昨年強風で倒れた。この中だったらジャガイモだろうか。種芋もネットで比較的安く手に入る。というわけで今年のラインナップは枝豆&ジャガイモ。オクラ、インゲンも少しだけ播種、ナス、トマト、かぼちゃは自給用にそれぞれ苗を一本だけ植えた。


・書くこと

何の予定も目標もないが、相変わらず何になるともわからない文章を書いている。思いつくままに断片を書き連ねてストックしてゆくのはあまり良いことではない。そうして積み重ねた断片的な言葉の大半は、結局何にもならない。いつかまとまった文章を書くときに材料になるかと思いきや、断片的な言葉の蓄積のせいでむしろ筆が重くなることすらある。書くときは、茫洋と書くのではなく、なるべく目的をもって最初から何かの形にするつもりで書いたほうが良い。わかってはいるのだが、昔からの癖で何になるともわからない断片を書かずにはいられない。吝嗇と書くことは、全く治らない。

最近よく考えていることは、自分の虚無の根源は何なのか、必然なのか偶然なのか、ということである。虚無は、人間存在そのものから必然的に生ずる問題なのだろうか。ずっとそう思っていたのだが、最近は、実はそうでもないかなと思うところもある。生死の問題を突き詰めて考える人でも、「虚無に陥る」という事態を免れているように見える人はたくさんいるからである。そういう人と自分との違いは何だろうか。虚無は「生き方」の問題ではない、と言い切れるほど、自分は清く正しく生きてこなかった。だから、自分の境遇であるとか、生活環境であるとか、人間性であるとか、過去の行いであるとか、時代背景であるとか、精神状態であるとか、思考過多であるとか、「いま」「ここ」の実存的態度を欠落させる偶然的な要因を逐一紐解いていって、虚無の根源をはっきりさせたいのである。こうして思考することや書くことが、自分の頭の中の時計を止めて、余計に虚無に結び付くのだと知りつつ、この数年間、不安に駆られて夜な夜な書き殴っていたのは、ほとんどその種のことである。

そもそも、今この瞬間に身に迫る虚無を感じている人、自分の頭の中から出なければ気が変になりそうな人ってどのくらいいるのだろうか。現実社会ではそんなことを話す人は滅多にいないし、逆にインターネットでよく流れてくる言葉は妙に軽く聞こえることがある。どのくらい真摯なものか判断がつかない。総じて、どのくらいの人が、どんな種類の虚無を、どの程度感じているか、全く判断がつかない。まあ、他人のことは置いておいて、とりあえず、自分である。自分が生きてゆくために、自分の虚無について考えなければならない。




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どうしていいかわからない!(直観主義論理の自然演繹では矛盾から如何なる命題でも導出することができる)  


論理学の基本的な証明体系であるゲンツェンの自然演繹には、矛盾(論理記号は⊥)からは如何なる命題でも導き出せるという変な規則がある(より正確には、自然演繹の中に、このような規則を含む直観主義論理と呼ばれる論理体系がある)。記号的に書くと、

003.jpg

ちなみに、「Aであり、かつ、Aでない」からは矛盾を導出することができる。

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ところで、人間は、意識の内部、時間性の内部、人生の内部にいながら、同時に、その外部に立ってそれを理解し、俯瞰し、思考することができる。ここに、人間存在の根本的な矛盾がある。

自分の人生の内部にいながら、自分で自分を見渡す、つまりその外に立つという矛盾から、死の不安が生まれるのです。この不安は、内側から生きるとき永遠として思われる生と、外から見るとき有限であらざるをえない生との衝突から生まれます。ジャンケレヴィッチ『死とはなにか』p.21

どうやって生きていったらいいのか考えていると、結局のところどんな生き方も許されていることになり、その自由ゆえに逆にわけがわからなくなる。そういう思考パターンを(似非)自然演繹で表すと、

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最初から矛盾を内包しているような存在(=人間)は、必然的に、どうしていいのかわからない。




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反オリンピック諸相  


新潟でゲストハウスに入ってから、大して汚れてもいない体をシャワーで洗って、大して汚れてもいない服を洗剤と洗濯機で洗う日々である。歩き旅をしているときは心地よい緊張を保っていた神経も、マットレス付きのベッドによって完全に弛緩し、また屍の如く天井を凝視する毎日。たまに近くの図書館へ行っても頭が鉛のようで思考が微動だにしない。一時間もしないうちにコンビニへ行ってアイスを買ってゲストハウスへ戻ってソファに倒れ込む。食欲は湧かず、必要所要量どころか基礎代謝分のカロリーを得ているかも怪しい。

ソファに埋もれながら久しぶりに漫画というものを読んだが、登場人物の見分けがつかず、誰が誰と戦っているのか、今何に向かって動いているのか、全然入ってこない。「物語」が響かない。響かないから、理解できない。ちなみに『花の慶次』という漫画である。もう内容はほとんど覚えていない。たしか大きな馬がいたはずである。

物語と言えば、オリンピックである。リビングに大きなテレビがあるのでよく見ている。もしかしたらゲストハウスの人間の中で一番見ているかもしれない。100メートルを何秒で走るかという具体的な行為や記録が軸になっている以上、人の心を動かすか否かが全てであるような完全な芸術とまではいかないが、考えてみると100メートルを9秒や10秒で走れたからなんだという話で、「夢」「感動」「力になる」といった物語語が跋扈するオリンピックは、やはりその大部分が物語によって演出され肉付けされて成り立っていると言わざるを得ない。

オリンピックそのものよりも、オリンピックを見た諸賢が何を言うかを見るのがおもしろい。

スポーツ選手は何も偉いことしてない。こういうものを疑う姿勢はなくしたくない。鶴見済 (@wtsurumi) 2016年8月16日

鶴見済さんはいつもの調子である。

オリンピックなど実利の目で見れば、単なる浪費であり、何の役にも立たない。もちろん「経済効果」などという言葉はまやかしである。それが金を生み出したり賞賛の的になったりするのは、そもそもそれが夢の対象だからであり、ということは夢が夢を生み出し、価値が価値を生み出し、物語が物語を生み出す手品のようなものである。余談だが、十代の頃にスポーツでそこそこ活躍した経験を持つために、つまり夢が夢を生み出すような、0が10にも100にもなるような空間に長くいたために、1を得るには1が必要であり、1には1しか返ってこない普通の社会に出て少しおかしくなってしまった人を何人も知っている。

オリンピックが厄介なのは、まるでそこに実があるかのように互いに騙し合いながら進んでゆくところである。僕は花火みたいに潔く最初から何の意味もありませんと開き直っているのは結構好きなのだが。ヒューン、ドッカーン。

それから、逆に、物語が足りないという人たち。こんなちっぽけな物語で俺の血を滾らせようなど百年早いわ、という人たち。「オリンピックつまんない」という呟きの大半はこれであるように思う。オリンピックはつまらないが、もっと面白い物語を知っている、もっと面白い物語があるはずだ、という人たちである。オリンピックには直接関係ないが、丸山健二の一節を思い出した。

私は祭りの類が嫌いだった。その程度の変化と刺激に酔い痴れて興奮し、人生を謳歌できるおとなを見かけるたびに失望感が深まってゆくのだった。/『生者へ』p.39

あるいは、人為的に作られたルールが人をこんなにも熱くすることを、端的に不思議だなと面白がる哲学者たち。

オリンピックは不思議だ。十分に感情移入して試合の展開に一喜一憂したりもできるにもかかわらず、他方ではどうしても、この人たちはいったい何をやっているのだろう、必要もないのにわざわざ人工的なルールを作って見知らぬ外国人と無意味に超真剣に争いあったりしちゃって、という疑問が去らない。/永井均 (@hitoshinagai1) 2016年8月15日

いずれも単なる表面的なニヒリズムやシニシズムに留まらない。というのも、ある物語の内部にいてその流れの中に身を置けると同時にそれを外部から冷徹に理解することができる人間の魔訶不思議な二重性が、生と死の二重性と直結しているからである。

もちろん、この世の中そのものに対する疑問でもあるわけだが。/永井均 (@hitoshinagai1) 2016年8月15日

ひとたびその風(ペシミズムの寒風)に晒されると血の騒ぎなどひとたまりもなく凍てつき、もしかするとこの世は生きるに値しないのかもしれないという、あの厳然たる答がしばらく居座り/『生者へ』p.38

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夜になるとようやくかろうじて散歩する程度の元気が出てくる。茶碗一杯のご飯を胃に詰めたいと思う程度の食欲も出てくる。夜というのは不思議な時間である。毎日が昼ばかりだったら生きてゆくのはずっと困難だったはずである。




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