寝太郎ブログ

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訪れた唯一の春の朝を逃さないように  


今日は僕が好きなフランスの哲学者、ヴラジミール・ジャンケレヴィッチについて。

Vladimir-Jankelevitch.jpg

ジャンケレヴィッチは決してメジャーな哲学者ではなく、日本の大学の講義やゼミなんかではあまり扱われないし、哲学科の学生ですら知らない人が多い。確かにジャンケレヴィッチの著作は哲学らしい論理的な思想体系とは言いにくい部分がある。フランス系の哲学者に多いのだが、体系を作り上げるというよりも、自分の確信した真理を何度も何度も詩や音楽のように言葉を変えて繰り返すのである。

その真理というのは、「死の虚無」と「生の神秘」である。どちらか一方ではない。その両方を誤魔化さずに直視する。ジャンケレヴィッチの対談集『死とはなにか』の編者曰く、

ジャンケレヴィッチは・・・「死の虚無」から目を逸らさず、また「存在と生の神秘の扉」を閉ざすこともしない。『死とはなにか』p.10

たとえば、「死の不安」の出どころを的確に表現して曰く、

自分の人生の内部にいながら、自分で自分を見渡す、つまりその外に立つという矛盾から、死の不安が生まれるのです。この不安は、内側から生きるとき永遠として思われる生と、外から見るとき有限であらざるをえない生との衝突から生まれます。『死とはなにか』p.21

「生の無意味さ」も言い表すところ明快にして、

生の内部で生に関する限り、物事は目的を持っています。生には内在的な目的があるのです。私の一日、私の仕事には意味があります。意味がないのは、その全体なのです。私の人生は、たぶん、他の人生に対しては意味を持つかもしれません。だが、死によって閉ざされた私の人生全体には意味がない。『死とはなにか』p.28

「逃げ道」も躊躇なく塞ぐ。

たとえば、来世とは未来の人類のことだと言うひとがいます。そういうひとは、子孫に、未来の人間に自己の再生を夢見るのでしょう。かくして、人類は永遠であるというわけです。しかし、私には駄目です。『死とはなにか』p.45

宗教的解決も一刀両断する。

往々にして、信者は来世に対して容易に信仰を抱き、死を死後の生の入口として、彼岸を此岸の続きとして、より心地よい此岸として考えています。・・・私に言わせれば、これはとうてい真剣な態度とは言えません。『死とはなにか』p.49

こうして「死の虚無」を見つめはじめ、時空の無限性に意識を持っていかれると、いま目の前にしている生活のディテールが霞み、たった一瞬の「生」は限りなく収縮し押しつぶされそうになる。ジャンケレヴィッチも曰く、

私たちは自分がいずれ死ぬことを頭では知っているのですが、それを腹の底からは納得しないのです。もしそんなふうに納得したら、私はもう生きていけません。『死とはなにか』p.27

「死の虚無」を執拗に説き、そちらにばかり真理を見る哲学者はいる。たとえば中島義道がそうである。中島の場合は「死」を軸に自分自身のアイデンティティを確立してきた向きがあるので、実は彼が死を説くその裏側には大きな生が隠れているのであって、安易に中島を「死の哲学者」と取ることはできないのだが、いずれにせよ著されている内容は偏っている。「死の虚無」を誤魔化すことが欺瞞であるように、「生の神秘」を誤魔化すこともまた欺瞞である、つまり真理からは遠ざかるはずなのに。

また「生の神秘=実存」にばかり目を向け、それを称揚する芸術、宗教、哲学も多い。僕は仏教はこの部類なのではないかと思う。「自我」が何であれ、安易に「自我」の消去・解放を謳う仏教は、「生=実存」の消失・対極としての死、その虚無や恐怖というものに全く思い至らない、まともに考えられてすらいない、問題の俎上に上ってすらいないように思える(参照:仏教は何も教えてくれない)。

実存と死とは表裏一体であり、実存に気付くことは死に気付くことであり、死に気付くことは実存に気付くことである。ジャンケレヴィッチは「死」を「実存のおそるべき子供」と表現している。

「実存のおそるべき子供ともいえる死が嗤うと、優雅な仮象の世界に大いなる混乱が起こる」のだ。そのとき、もはや仮面や扮装は役に立たず、誤解の余地なき大いなる単純化が訪れて、一切の虚栄が拭い去られ、私たちはただもう慰安を求めるしかない。『死とはなにか』p.8

しかし逆に言えば、死に思い至った者は実存に気付くこともできる。今この瞬間にここにいる神秘、すなわち生の神秘、存在の神秘に気づくことができる。

私の言うのは、私の人生やあなたの人生、私たちがいま、この瞬間にここにいるということが、よくよく考えてみれば、とても不思議なことだということです。『死とはなにか』p.50

そしてその神秘は、物事の内部にいるだけでなく、それを外部から思考することのできる、つまり理性ある人間だけが知ることができる。

神秘とは、理性をそなえた人間、理性的な人間に対してのみ存在する何かです。死の内部にいると同時に、その外部にいる人間、死を考え、その限りで死の外へ脱け出す人間にとってのみ存在する何かです。『死とはなにか』p.57

つまり、「生の外部」に出るからこそ生でないものとしての「死の虚無」に思い至るのとまったく同様に、「死の外へ脱け出す」からこそ死ではないものとしての「生の神秘」に思い至ることできる、というわけである。

かくしてジャンケレヴィッチは「どうせ死んでしまう」的な諦めを嫌い、「死の虚無」に浸りすぎて「生の神秘」を見失ってしまうことに対して警告を発している。

「訪れた唯一の春の朝を逃さないように!」と忠告するジャンケレヴィッチが、諦観の哲学者たちを相手に挑む弁舌の試合は見ものだった。『哲学教師ジャンケレヴィッチ』p.116

「訪れた唯一の春の朝」とはなにか。もちろん人生の内部のあれこれの「春」ではない。生そのもののことである。




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『仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か』魚川祐司  


41ZOsuzOCtL2.jpg『仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か』魚川祐司

何冊か仏教に関する概説書を読んだが、本書が特に明快だった。実践の難しさや真偽はどうあれ、言っていることはとてもシンプルである。

仏教の目的は、解脱して涅槃の境地に至ることである。そのためには、盲目的で習慣的な行為であり、特に執着、嫌悪、無知であるところの煩悩を完全に滅尽することである。

煩悩を含む世界(loka)は縁起の法則(因果の法則)によって生じる現象から成っており、逆に言えば原因が消えれば現象も消える無常なものである。現象が無常である以上、それを渇愛し続けるのは「苦」である。また、流れる現象の中に実体的で不変的な「我」を求めるのもやはり「苦」である。

煩悩の流れは「気付き」によって堰き止められ、「智慧」によって塞がれる。「気付き」とは、無常な現象を無常なままに見ることであり、それを実体視しないことである。それによって「智慧」つまり「涅槃の覚知(p.146)」ないしは「実存のありかたの決定的な転換(p.142)」がもたらされる。これすなわち、解脱である。

本書は以上のことを懇切丁寧に解説するものであり、その中で幾つかの重要な問い立てがあった。


・なぜ解脱を目指すのか

煩悩の滅尽ということで、たとえば、対価を得るための労働や思慕を含めた生殖も否定される。これは生産し、家族や社会を形成し、暮らしを豊かにしてゆくはずの「世の流れ」とは逆流するものである。そこまでして解脱を目指さなければならない理由は何か。

筆者の答えは、それが個人の生死にかかわらず永遠に続くものだから、というものであった。縁起の法則は人ひとりの生涯を超えたものであり、永遠に続く輪廻転生の中で積み重ねられた「業」に原因している。したがって、苦(不満足)も生涯を超えて続くのであり、その輪廻の実感こそが、「苦あり楽ありの人生でよいではないか」とすることを妨げている。

このような「終わりのない不満足」が、たかだか百年程度の「一生の問題」なら、それでもまだましかもしれない。いつか「絶対的な終わり」が来ると思えるのならば、現代の日本人がよくやるように、「人生は死ぬまでの暇つぶし」などと嘯きながら、何とか自分をごまかし続けることもできるだろうから。(p.51)

ここで僕はいろいろとわからなくなる。輪廻の実感が無いのでわからない、というだけでなく、輪廻というものが後述されているように「主体がない」、つまり「何が輪廻する」というわけでなくただの現象の継起そのものであり、そこに何らかの同一性がないのであれば、それが「続くから嫌だ」という感覚がどこからくるのかわからない。仮にそこに何らかの同一性があったとして「続いている」という感覚があったとしても、やはり依然として「山あり谷あり、ときに満たされときに渇望し、それでいいではないか」という考えは成り立つだろう。それが百年のものか永遠のものかはあまり関係ないのではないか。

もっと言うならそもそも自分は「わが解脱は不動であって、これが最後の生であり、もはや再生することはない」というのが安穏であるどころか恐ろしいわけで、そこを目指すということは輪廻云々と関係なく全く共感できないわけだが、これを言い始めると、本書でも

そうした無常の現象の世界の中のどこかに、固定的・実体的な我が存在していると思い込み、そしてその虚構の実体我に執著して、苦の原因を作る(p.91)

とされているとおり、仏教の立場から言えばそもそもその恐怖は我執からきているということになって、イタチごっこになるのだろう。僕は実体的な「我」というのは我執するから存在するように思えるのではなく、端的に存在し、したがってそれを根として生ずるあらゆる苦もある意味必然的に存在すると思うのだ。


・「我」の概念について

上の問いの中の同一性の話とも関連しているが、「我」が在るのか無いのかという議論は、さすがにおもしろかった。

世界(loka)は「無我」であるが、ここで言う「我」とは、「常住であり、単一であり、主としてコントロールする権能を有する」ような「実体我」であり、それを否定する意味で「無我」と言っているにすぎない。それとは別に、我々がよく親しみ知っている「私」という感覚は、「経験我」と呼ばれ、それは無常の現象の中で浮かんでは消えてゆくような存在として認められている。本書の記述を頼れば、

それは縁起の法則にしたがって生成消滅を繰り返す諸要素の一時的な和合によって形成され、そこで感官からの情報が認知されることによって経験が成立する、ある流動し続ける場のことである。・・・それを「個体性」だと言ってもよい。(p.89)

意識に関する哲学の立場の一つに「付随説」とか「随伴現象説」と呼ばれるものがあって、そこでは意識とは物理現象に付随しているだけだとされる。経験我の概念もこれと似ていて、したがってその問題点もやはり類似していて、付随される対象が物理現象であれ業や縁起法則であれ、やはりどうしてそんなものが存在するのか、「変わりゆく自分」以上の自己同一性の感覚がどうして存在するのか、謎が倍増するだけな気がする。なんというか、アドホックに「経験我」という概念を一つ増やして対処しているというような印象が否めない。

本書によればこの経験我と実体我の区別を見過ごすことによって、後世の人々が無用な混乱を招いている、ということであるが、ならば最初から明確に別の言葉を使えばよいのであって、原典でどうなっているか知らないが、一番肝心なところで後世まで解釈の多様性が生じるようなものは、記号の体系としては落第点である。

いずれにしても、この経験我は、仮に解脱しても存在し続ける。それ以外の「我」があるかどうかについては、ブッダ自身は沈黙している。この沈黙と並行して、人が死んでも実体的な我が永久に存在し続けるという見解を「常見」、人は死んだら無になるという見解を「断見」といい、どちらも誤りとされ「無記」とされる。

仮に僕が、仏教解釈としてではなく端的に実感としてどう思うかを問われれば、ここで言う経験我と実体我は、もう少し連続的なものではないかと思う。やはり「経験我」だけでは、たとえば「因果的世界lokaの流れから逃れて解脱しようと試みている自由な主体」がどういう存在なのか、どうにも説明が付きにくいのである。

右にブッダは「私」という言葉を使って説法したし、現代の高僧にも「私」はある、と述べたが、それはこの時々刻々と変化・流動する認知のまとまり(個体性)のことを、仮に指示して「私」と言っているだけのことである。(p.90)

とあるが、ブッダが、あるいは誰かが、素朴に「私は」と言ったときの「私」が何を示しているかは、必ずしも明確ではない。少なくとも語っている限りにおいて、それは経験我やその他諸々のことに対して一つ高階の立場から把握しているわけであるから、「単なる経験我を仮に「私」と言っているだけである」と言ってしまうのはどうだろうか。


・「自由」の概念について

ここで「自由」という概念も出てくるわけだが、僕はこの通り、「自由」という概念が問題になるのは、本書の中で言われた「善」や「責任」が云々というよりも、流転し生成消滅する因果的現象世界lokaの中で、それを超越しようとしてこうして考えたり瞑想したりして自由に振る舞っているこの存在は一体何なのか、というところであると思う。

本書では、カントを引きつつ、「自由と思っているものでも実は自由ではない」的な理屈によって議論が閉じられているが、一筋縄ではいかないだろう。いずれにしても、その「自由」の主体である「我」が、因果法則的世界を超越したところに(しかも涅槃ではなくこの世に)存在するかどうかの議論と並行して、問題は山積している。ブッダとしては、この種の形而上学的問題は仏教の文脈においては「無記」すなわち在るとも無いとも言えないこととして、退けているようである。

ブッダが「無記」とせざるを得ない問題は大抵、彼自身の「世界」の定義に起因しているように思える。たとえば、「世界は空間的に無限であるか」という問いに対して、

それ(世界)が欲望する「私」の認知とは独立に、事実として有限であるか無限であるかなどというのは、全く見当違いの問いなのであって、そんなものには答えようがない。(p.122)

とあるが、「世界は空間的に無限であるか」という問いに対してこのように答えられたら、「それはあなたの「世界」の定義が勝手すぎます(狭すぎます)」と言いたくなるはずである。


・「涅槃」とは何であるか

涅槃そのものは、言語的理解を超えたところにあるとされている。しかし、それを我々の世界lokaの側から規定するのであれば、我々が渇愛したり判断したりして世界を描き出すことを真にやめ、生成消滅する現象の継起をあるがままに見るようになったとき、決定的な実存の転換が起こるということである。

husserl.jpgところで、このような考え方は「事象そのものへ」という言葉に集約されるフッサールの現象学を思い出させる。現象学ではそのような、煩悩なども含めて、対象に関する全ての判断を停止する方法を「エポケー」と呼んでいる。昔、現象学の授業の時にS先生は「私はやれと言われれば今すぐにでもエポケーできますよ」と言って、一二秒押し黙って、「はい、できました」と言っていたのが思い出される。仮に類比が正しいとすれば、S先生は涅槃の世界と日常の世界を自由に行き来しているということだろうか。

これは笑い話ではなく、S先生は決して修行したわけではないが、やはり思考による理解と体験による理解というのは決して無関係ではないわけで、思考というものが仮想体験を伴いながら進んでいく以上、そういうことがあっても決して不思議ではないと思うのだ。


・出家しない人にとって、仏教の教えや瞑想は役に立つのか

以前何度か不真面目ながら瞑想の場に身を置いた経験から言うと、これを本気で体得した場合、とても日常生活を遂行できるようには思えなかったし、そもそも仏教の教え全体が、たとえば「大量消費社会」のような「行き過ぎた生」を否定するのみならず、ごく平凡な生すら否定することを含意するのではないかと疑問に思ったことがある。もちろん道具的に用いるのであれば、現世的に「不快」だと思われることに対する処方箋としては機能するかもしれない。しかし、仏教としては「快」のほうも否定し、快不快という生のエネルギーに基づいて活動することを否定し、究極的には人生の悲喜の襞を無くしてしまおうと主張しているように思えた。

瞑想に来て元気になって帰ってゆく人の多くは、そこで大勢の人が真剣に人生と向き合っているその真摯な雰囲気に感銘を受けるか、あるいは一定期間の禁欲状態によるリバウンドでより生の喜びを噛み締めるようになるか、そのどちらかであるような気がした。いずれも、本来の教えとは無関係である。

本書にも「絶対にごまかしてはならないこと」として、「仏教の教えは人間的に正しく生きるような方向を向いていない」ということが書かれている。

ならば、仏教には0か1かしかないのだろうか。その中間に何か意義が存在するのだろうか。この「実際の人生との折り合い」をどうつけたらいいのかという点について、著者の近日発売の新刊(『悟らなくたって、いいじゃないか 普通の人のための仏教・瞑想入門』)もとても楽しみにしている。

出家したくないのはもちろん、欲望を捨てたくない、悟りも目指したくない「普通の人」は、「苦」から逃れられないのか? 「普通の人」の生活にブッダの教えはどう役立つのか? 瞑想をすると何が変わるのか? (『普通の人のための仏教・瞑想入門』内容紹介より)




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