寝太郎ブログ

2018年12月6日雑誌発売→『kotoba(コトバ) 2019年 冬号』特集・孤独のレッスン

瞑想中毒  


「瞑想なんて、タダ飯タダ宿のために行ってんだよ」などと強がっている僕ですが、実は最近、座りたくて仕方がありません。

と言っても、お寺の瞑想コースに入ってがっつり座るのではなく、日常的に「あー、座りたいな」と思うのです。そもそも、お寺のコースは日程を決めて遠くまで行かないといけなかったり、近場は予約で一杯だったりして、座りたいと思ったときにすぐに座れないのです。

そうすると、困るのが場所です。基本的には公園や屋上などの開かれた野外でやるものではないですし、ドミトリーで座るわけにはいきませんし、安宿のシングルルームで座るのもなんとなく気分が乗りません。

本当は、場所や環境に左右されるようでは、自分一人の時間になっているとは言えないと思います。雰囲気に後押しされて瞑想が捗るようでは、所詮は他律的なプロセスに過ぎず、そもそもの瞑想の目的から大きく外れています。そこを妥協すると、宗教と大同小異になってしまうと思うのです。

とはいえ、人間だれしも、宗教的な部分を大いに持っています。どんなに宗教が嫌いな人でも、宗教性は持っています。本気で悟りを開こうとするのではなく、仏門に入るわけでもない俗人が、「場所」がもたらす力を大いに活用するのは構わないと思うのです。

それで、「どこか座れる場所無いかな~」とアテもなく周辺を彷徨います。これはどう見ても、喫煙者が「どこか吸える場所無いかな~」と喫煙スペースを探してウロウロするのと同じです。つまり、一種の中毒です。

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そうすると、必然的に大小点在するお寺に足がゆくのですが、お寺自体は瞑想をするための場所ではなく、参拝客が来て、お祈りして、お布施をして、すぐに帰ってゆくところです。口唱(chanting)のために人が集まっていることはありますが、日常的に瞑想目的で人が集まるというのは聞きません。

僧侶の方に「小一時間座って瞑想するような場所ありませんか」とお聞きしたところ、「お堂でどうぞ」ということだったので、こんなような、お寺の隅っこのほうで座らせてもらってます。

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長く合掌している人はいますが、僕以外、瞑想している人はいません。

僕は、瞑想についてまことしやかに囁かれている「効能」を必要以上に信じてはいません。なんかもう、それどこかに書いてあったんじゃないの、というような瞑想体験談が巷に溢れています。外部から仕入れた物語を自分がなぞってしまい、まるでその通りに自分が変化したかのように錯覚するパターンです。

そんな魔法みたいなもんじゃありません。ただ座りたいときに座るだけです。

新しい小屋の構想で一つ迷っているのが、瞑想スペースを独立で設けるかどうかということです。ミニマムな小屋にするためには、間接照明や屏風みたいなのをうまく使って、同じスペースを使いつつ、違う意味を持つ空間にできたらいいなと妄想しています。




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滞在期間自由、泊り込みで瞑想修行ができるタイのお寺 Wat Tam Wua  


タイ北部、パーイから車で約2~3時間(バンで1時間半、ローカルバスで3時間)のWat Tam Wua Forest Monasteryでは、泊り込みでヴィパッサナー瞑想の修行ができる。

滞在期間は自由である。予約も何も無しで突然行って、好きなだけ滞在して、「明日帰ります」と言って帰って来ればよい。というか、Wat Tam Wuaには公式ホームページもメールアドレスも無いので、直接訪ねていくより他にない。

宿泊設備は豊富にあり、一人ひとりに個室(バンガロー)が与えられる。運悪く満室だった場合でもバンガローが空くまで雑魚寝部屋があるので心配無用。

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こちらは女性用のバンガロー(Kuti)。きれいで新しく、少し高い場所にあり、景観がとても良い。

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男性はこちらのバンガロー。古いが十分快適である。トイレ、シャワー、電気、扇風機あり。

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僕が滞在させてもらっていたバンガロー。

ご飯(タイ料理、ベジタリアン)は本当に美味しくて、おかわりもできる。グリーンカレーなどはさすがに辛いのが出てくるが、おかずは何種類も並んでいるので大丈夫。お茶やコーヒーも飲める。

一日3回、各2時間のグループ瞑想がある。グループ瞑想はウォーキング瞑想から始まり、普通に座って瞑想、最後に横臥瞑想という流れである。夜はchanting(詠唱)もある。

ヴィパッサナー瞑想は真剣にやるととても疲れる。ぼんやりとしているのでもなければ、好き勝手に記憶の糸を手繰るのでもない。あれこれ記憶や想像を彷徨ってしまいがちな怠惰な心を、能動的に現実に引き戻し、現実に留めておくのがヴィパッサナーで、普通の人にとってはエネルギーがいる。個人的には、一日3回各2時間、これ以上はできないと思った。

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メインの瞑想ホール(Dining Hall)。

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サブの瞑想ホール(Dhamma Hall)。ヨーロピアンの人が掃除してくれている。

外国人の受け入れを最初から念頭に置いて作られた瞑想センターで、僧侶の方も英語が話せるし、Wat Tam Wua専用の英語の冊子(というよりほとんど本、全150ページ)も置いてある。

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この冊子を書いた先生(表紙の先頭の人)が中心になって、わかりやすい簡単な英語で指導してくれる。瞑想経験は必要なし。ただ、英語が堪能でない限り丁寧な指導は受けられないので、先に日本語の瞑想合宿に参加するか、ヴィパッサナーの本を一冊読んでから行ったほうがよいと思った。

また、人の出入りが激しいので、僧侶の先生は「今日は新参者がいるので、最初から説明したいと思います」と毎日言っていたような気がする。基本的には敷居が低い初心者向けの瞑想センターだが、向上心がある人のために本もたくさん置いてあるし、僧侶の方はとても熱心に質問に答えてくれる。

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敷地はとても広くて、ダイナミックな景観の中にウォーキング瞑想のコースがある。

外国人(30人~60人くらい)の男女比は1:2くらいで、女性のほうが多い。ほとんどヨーロピアンで、日中韓が一割くらい。他に、大勢のタイ人(100人くらい)が突然来たり、突然居なくなったりする。

参加費はドネーション(寄付)方式である。ドネーションボックスが置いてあるので、好きなときに自由額を支払う。

持って行ったほうが良いもの:
・上下白の瞑想服(チェンマイの普通のお店で130B~。ナイトマーケットやパーイのメインストリートなどでは高くふっかけられる)。貸し出しもある。
・蚊対策。蚊帳もあるし、蚊はほとんどいなかったが、気になる人は念のため。
・朝晩はたまに寒いときがあるので、襟の見えにくい白いランニングシャツのようなものがあると、瞑想服の下に着込むことができる。羽織るものは白以外も認められている。

パーイからの行き方だが、バスターミナルからメーホンソン行きのバスに乗って、途中で降ろしてもらう。運転手も「Wat Tam Wua」と言えばわかる。ローカルバスは60バーツ(≒180円)で11:00発、ミニバン(エアコン、タイ語でロットゥー)は150バーツ(≒450円)。ローカルバスはよく遅れる(雨が降ると一時間遅れなど)し、坂道が多いのに馬力が無いせいで全然進まない。おそらくバンの2倍くらい時間がかかる。ミニバンがお薦め。メーホンソンからも同様にローカルバスとミニバンが出ている。

ローカルバスやミニバンはチェンマイ-パイ-Wat Tam Wua-メーホンソンで行き来しているので、チェンマイから直接Wat Tam Wuaへ行くこともできるし、チェンマイへ直接帰ることもできる。

ただ、ミニバンはツーリスト用のとローカル用のと二種類あって(車は同じ)、チェンマイからメーホンソンまで行くツーリスト用のミニバンは無いので、チェンマイの宿や旅行代理店でメーホンソン行のミニバンチケットを買うと結局ローカル用のチケットを代理で予約してくれることになる。それだと宿まで迎えに来てくれるが、値段が400~600Bととても高い。それなら自分でチェンマイのバスターミナルまで行って、窓口でメーホンソン行のチケットを買えばいい(250B)。あるいは、チェンマイ-パイ160B(ツーリスト)、パイ-メーホンソン150B(ローカル)を別々に買った方が安いが、たぶんうまく乗り継げずパイで一泊することになると思われる。というわけで、チェンマイから直接行く場合のお薦めは、バスターミナルで自分でローカル用のチケットを買う方法。一時間毎にバスが出ている(一番早いのに乗れるかどうかはわからない)。

その他、バンコクからメーホンソン行の夜行バスがあって、夕方出て翌朝着く。800~900B。いろいろ乗り継いで来るよりかなり便利だが、Wat Tam Wuaで降ろしてもらえるかどうか不明。カオサン発のツーリスト用の500B前後のチェンマイ・パイ・メーホンソン行バスもあるが、盗難事件が多いようであまり評判が良くない。

その他ピックアップタクシーや飛行機など、交通手段は全てWat Tam Wua内の掲示にまとめられている。

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運転手はちゃんと止まってくれるはずだが、もし忘れていたときのために、「Soppongの休憩所から約25キロ」と覚えておくと良い。1キロ毎に道標がある。「Baan Mae Suya」の看板と小さな橋のすぐ後に、Wat Tam Wuaへ続く道の入り口がある。ちなみにBaan Mae Suyaは寺から2キロくらいで歩いていける最寄の村で、何か調達するときはここを使う。

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「Tam Wua Forest Monastery」の大きな看板がある所で降ろされるので、あとは徒歩で1300m。道は絶対迷わない。

帰りは、9:30にローカルバスが入り口の看板のところを通る。あるいは、事前に言っておけば13:30にイエローキャブ(乗合タクシー)が来てくれる。パーイまで、ローカルバスは60バーツ(≒180円)、タクシーは80バーツ(≒240円)で、タクシーは敷地内まで来てくれる。その他、メインロードには一時間に一本ミニバンが走っているので手を挙げて乗せてもらえばいいが、満員のことが多々あるので事前に電話すると確実である(細かいことは、Wat Tam Wuaの掲示にまとめられている)。ちなみに僕は、世話役の女性がタクシーを呼び忘れていたので、ヒッチハイクで帰った。そういう手もある。

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いろいろ作法があるのだが、とりあえず外国人ということで大目に見てくれるので、興味のある人は臆せず参加してみるべし。




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悟りなんて  


6月に、ヴィパッサナー瞑想合宿(ゴエンカ式の10daysコース)に参加した。

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神奈川から千葉まで桑の実をつまみながら歩いて行ったのだが、道すがらずっと、瞑想センターに辿り着く直前まで、参加すべきかどうか迷っていた。やっぱり引き返そうかと何度も思った。

というのも、「瞑想合宿」というものは、そこに設備があって、先生がいて、一緒に瞑想する仲間がいて、日常から超越したある種の「雰囲気」がつくられている。それは一つの「他者依存」ないしは「環境依存」である。それによって得られた能力は、自分由来のものではなく他律的に得られた力であって、自分に何の矜持も自信ももたらしてくれない。またそれによってもしも何か大きく自分が変わったとすれば、それが良いことであれ、とても恥ずかしいことであると感じる。一言で言うと「他律的に変わってしまう」のが嫌だった。合宿でできることは、一人でもできるはずなのだ。

結局、参加はしたのだが、「苦悩の原因は自我である。だから自我を消せばよい」という考え方があまりに短絡的に思えた。思うに、「苦悩からの解放」に重きが置かれすぎなのだ。「幸福病」なのだ。

確かに、自我を消して嫌悪も渇望もしなければ苦悩は消えるかもしれない。それはあたりまえである。でもそれでいいのだろうか。それが人間のあるべき姿なのだろうか。苦しんでもやるべきことというのは、この世界には無いのだろうか。自我を消して心が平穏になるならば、昆虫の心はさぞかし平穏だろうと思うが、それを難しくさせている人間の性質というものの存在意義を考える必要はないのだろうか。

苦悩から逃れたい、幸せになりたい、解脱したい、だけでは、それは自分の人生と言えない。それが自分の人生でないとすれば、苦悩から逃れようが、幸せになろうが、何の意味もない。だから僕は、自分が一歩一歩自分の人生を歩むこと以外によって、自分が不連続的に変わりたいとは思わない。悟りを目的として修行することも間違っていると思う。そうした幸せになるための「奇跡的な手段」にも憧れない。そういう不連続的な過程を経て「悟った」人間も、それが表面的にどんな人格者であれ尊敬しない。

ただ、瞑想という行為それ自体には、実践的な意味において、大変感銘を受けた。ヴィパッサナー瞑想が謳っているような理論的な因果関係がそこに存在するとは未だに信じていないが(これは書くと長くなる)、とにかくとても良いものだと感じた。

ヴィパッサナー瞑想とは、実践的には「心を今この瞬間の現実にとどめる訓練」である。僕らは常日頃から、目の前の現実を越えて、いろいろと空想したり、後悔したり、不安になったり、そんなことばかりしている。だから、一切のコミュニケーションを断ち、自らの肉体的な感覚(ゴエンカ式は感覚に集中する)という現在のリアルな現実だけに頭を戻すということによって、様々な恩恵が得られる。これは事実であると思う。この瞑想の実践的な恩恵と、ヴィパッサナーの理論・思想的な背景とは別のものである。

ゴエンカ式ヴィパッサナーの理論の概略は以下のようなものである。あらゆる精神的な汚濁は、絶え間なく肉体的な感覚として表面に浮き上がってきている。それは意識的に気付くような大きな感覚から、無意識のレベルでの小さな感覚まで、多種多様である。私たちはその全ての感覚に気付くように訓練し、またそれらの感覚に対して「反応しないでただ観察する」ように訓練することで、精神的な汚濁は行き場を無くし、消滅する。通常私たちは、感覚が不快であれば嫌悪を、快であれば渇望を生み出し、将来の自分を縛ってゆく。しかし、反応をやめることで、そうして心の縛り目を増やしてゆく連鎖にストップをかける。現在のサンカーラ(反応)を根絶やしにすると、今度は過去の汚濁が表面に浮き上がってくる。過去の汚濁も同様のプロセスによって浄化される。そしてゆくゆくは、全ての汚濁が浄化され、苦悩から解放される。ただ、僕自身はこのプロセスを文字通りに信じているわけではない。

ちなみに、自分でも先生に質問したのだが、このメソッドによれば、具体的にどんな心の汚濁が浄化されたのか、自分ではわからない。インターネット上の体験談や、あるいは終了後の参加者の感想などを聞いていると、「過去の思い出が芋づる式に掘り起こされて、全てが明瞭な因果関係の下に繋がっていった」というようなのがあるが、これはヴィパッサナーとしては明らかに間違っている。僕らが処理すべきなのは肉体感覚だけで、それがどういう記憶に由来したものかは、基本的にわからない。言い方は悪いが、そういう意味では、とてもつまらない瞑想法である。自分は「心の浄化」それ自体が目的ではなく、ただ単に自分のことを知りたいだけなので、もっと記憶と直接的に対峙できるような瞑想法を好む。

来週後半から、タイのお寺で瞑想をしながら滞在する。瞑想というものを自分なりにアレンジ・解釈して、これからも付き合ってゆきたい。




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