寝太郎ブログ

2018年12月6日雑誌発売→『kotoba(コトバ) 2019年 冬号』特集・孤独のレッスン

「求めるから苦しいのです」のはてな  


僕が仏教について見聞きする過程で理解に苦しんだ点は大きく二つある。

一つはこれまで何度も書いてきたように(参照:仏教は何も教えてくれない)、死の虚無や恐怖というものがまともに考えられておらず、むしろ救いとして捉えられている点である。これは問題自体が複雑である。

もう一つは極めてシンプルな疑問である。「現世的な幸福」「現世的な快」をどうにかしたいと思って仏教に関心を持つ人はいないのであって、あくまで「現世的な不幸」「現世的な不快」をどうにかしたいというのが多くの人の願いである。ところが、仏教の処方箋は「求めるから苦しいのです」としてそもそも快不快というシステムそのものにメスを入れてしまうので、不幸を遠ざけ幸福を招くどころか、何もかも諦めなければならないと(少なくとも表面的には)言っている。仏教でも瞑想でも文字通り理解してゆけば多くの人がつまづくであろう部分である。

これに関しては、いろんな仏教解説書がいろんな応答をしているのだが、その応答の多様性がかえって不信感を増長させる。快も不快も観察するだけで消えはしないのです、とか、実存的自我に立ち戻り快も不快も謳歌するのです、とか、真に理解するためには輪廻や永遠性の視点が必要、とかである。こんなに単純な、しかも入り口にある問題なのに、何を読んでもスッキリしたことはなく、どこか都合が良すぎるというか、人々に受け入れてもらえるようにパッチをあてているようにも聞こえる。

煩悩なんて80歳にもなれば嫌でも自然と消えていくであろうものを、なぜ20や30で消す、あるいは対処しなければならないのか。少なくとも僕はまっぴら御免である。くだらない煩悩は消してもいいかもしれないが、その全てを消すことが賢明とは思わない。 もちろん心から納得すれば全てを捨てて飛び込んでもいい。しかし今のところ何を根拠に言っているのかよくわからないことが多すぎるし、もしも仏教の言うことが何かしら間違っていたとしたら、それに従うことは丸々人生を捨てるようなものである。

永井均が「仏教を含めいかなる宗教もルサンチマンである可能性がある」と言っている(最近いろいろ読んだ本のどこかで言っていたのだが、どの本か忘れてしまった)。つまり、現世的な悩みを抱える人に好都合なように、本来「よいこと」であるはずの欲望の追求や自我の構築を「悪いことだ」「慎むべきことだ」 として、大掛かりな価値の転換をすることによって、信者を抱え込んできた可能性がある、ということである。この是非はわからないが、少なくとも「得られなくて苦しいです」に対して「求めるから悪いのです」という応答は、まさにこのルサンチマンの構造を持っている。ただし、「悪い」などというタームは絶対に使わなくて、「良い悪いといった物語付けをしてはいけません」などとされていて、その辺がとても巧妙なのだが。




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仏教は何も教えてくれない  


山下良道の「雲としての私」と「青空としての私」という概念がある(参考『青空としてのわたし』)。「雲」というのは現世的な物語、価値判断、煩悩、人としての特徴などのあれやこれやで、しかしその雲を取り除いていってもやはり「私」があって、それが「青空」と表現されている。「青空」は哲学で言う「実存」の概念に近いが、「実存」のほうは文脈によって多様な意味を持つので、「青空」というのはとてもわかりやすい言葉だと思う。この記事はこれらの概念に対する批判ではないが、タームとして便利なので使わせていただく。

仏教の問題意識、克服すべき課題というのは徹底して「雲」のほうに向けられていて、雲はまさにあのとおり生じては形を変えて消えてゆくような無常なものですよ、自分と雲とを同一視してはダメですよ、というのが仏教の基本的な教えだと思う。

一方「青空」のほうはほとんどノータッチで無条件に崇め奉られているのだが、僕は本質的な問題(世界がどうなっているかという問題と生きる上での問題と両方)は「青空」のほうにあると思う。なぜなら、「死」というのは「雲」の対極にあるものではなく「青空」の対極にあるものだからである。「雲」が無くなるということが耐えられないのではなく、何もないはずの「青空」がさらに何もなくなるのが耐えられないのである。

もちろん、この考えが矛盾を含んでいるのはわかっている。「雲」の外に出ることはできても「青空」の外に出る(=死を思う)ことはできないからである。出たと思っても、意識して考えている限り、やはりそこは依然として「青空」なのだ。しかし、それでも、出てしまう、考えられないはずの「真の無」というものを考えてしまう、それが人間である。だから『〈仏教3.0〉を哲学する』にあるように、「実は人は死ねないのだ」というような納得の仕方は理屈としてはわかるけれども僕には(今のところ)できない。

個人的なことを言えば、幼いころに「死の観念」に思い至って以来、その「死の観念」の対極にある「私」、すなわち「青空としての私」というものは全く変わらない。それ以前の「自我」ははっきりしなくて、そのときそのときの断片的な記憶があるだけで、まさに「変わる」とはああいうことを言うのだろう。だから「死の観念」と「青空としての私」というのはセットなのだ。もちろん僕には「雲」が「青空」を覆うくらいたくさんあるし、それによって悩んだり成長したり大人になったり変わったりする。つまり自分の「青空」に流れている「雲」に関して達観しているわけでも何でもないが、究極的には「雲としての私」の問題なんてどうでもいい。根本のところで昔のまま変わっていない自我、自分にとってそれこそが「自我」であり、そこにこそもっとずっと深刻な問題があるのであって、仏教における「雲としての私」に関する無我や無常の教えなどは、まあその通りだけど、というくらいのものである。むしろその「深刻な問題」にとっては、一番単純な意味での煩悩や執着心が救いになったりもする。

「雲」はとても良い形をしている時もあれば、悪い形をしている時もある。悪い形をしている時、これを消去してしまいたいという感情が、ときとして自らを観念的ないしは肉体的に「死」に接近させることがある。しかしそれは全くの錯誤であって、雲を除けば青空があり、死というのはさらにその青空の対極にある。だから、自己消去的な感情に襲われた人はまず、死ではなく青空へと、実存へと、生そのものへと向かうべきである。青空になったら人生の悲喜交々も無くなってしまうではないかと案ずることはなく、依然として雲はあったりなかったりする。だから、青空へと向かうことによって何かを失うことはない。

雲が消えることと青空が消えることの区別がつかないような状態は、主として、雲と青空とを混同してしまっていることによるのであって、これは確かに仏教の否とするところであるし、特に現代においては意味のある教えだろうと思う。ところが、釈迦が四苦、すなわち「生老病死」などというときの「死」はまさにその錯誤としての、現世的な苦としての「死」しか扱っていないように思える。だからいとも簡単に「わが解脱は不動であって、これが最後の生であり、もはや再生することはない」などということが絶対善として挙げられていて、肝心の「真の無」については一言たりとも言及されない。換言すれば、確かに「青空へと向かうことによって何かを失うことはない」のだが、これは「青空に気付くことで全てを失う」ことと背中合わせなのだ。

結局、仏教は何も答えてくれないのである。




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自我が幻想ってどういうこと  


このコメントがズバリ、仏教関係の本によく書いてある謎の主張そのものです。

>確固たる信頼を持って感じていた「私は私である」という感覚自体が、立脚点が無く信用するに値しないあいまいな空想にすぎなかった、と理解可能だとすればどうでしょうか?
>「実は自我が無い」というのは、正確には「自我と呼んでいた感覚は空想にすぎなかったと理解した」ということで、"呼んでいた感覚"そのものは依然としてあるわけです。幻想だと理解しつつも存在する。その"呼んでいた感覚"を無くすことができると。

「自我を消すことができる」というだけでなく、「実は、今現在感じている自我も幻想(空想、勘違い、言い方は何でもいいですが)に過ぎない」ということを彼らは言います。僕にはこの文章は、賛成反対の前に意味がわからないわけです(したがって反対です)。

「ラーメンがあると思ったら幻想だった」これはわかります。実はラーメンは無かった。ラーメンがあると思った知覚、感覚、判断が間違いだったということです。

でも、「自我」って、自分が感じている感覚そのものでしょう。ですから、そう感じているか否かが全てです。感じているにもかかわらず、「実は、存在しない」とか「実は、幻想だった」とか、意味が分かりません。

まあ、別にそういう思想的立場が存在しないわけではないです。今すぐ結論が出るような話でもありません。しかし、僕が言いたいのは、もしも自我の存在・非存在を真剣に問うているならば、もっと考えるべきことがたくさんあるだろうということです。そういう可能性に思い至らない・思い悩まないということは、彼らにとっては真理などどうでもよく、何らかの目的の踏み台にするためにある一つの考え方をほとんど盲目的にとっているのだと、そう思わざるを得ません。

それは、「万物は移り変わるのです」という主張にしてもそうですし、「自由なんてありません、ただ物事が起こっていくだけなのです」という主張にしてもそうです。そんな簡単な話じゃありません。もちろん「分子原子レベルまで感覚を研ぎ澄ましてお悟りになられたのです」などという脅し文句は論外です。生き方の基盤にしている事実・真理が根拠薄弱・子供騙しなのです。

自分にとって「自我」というのは非常に大きな問題です。「自我」があらゆる苦悩の根源であることなんて寝小便をしていた頃から知っています。ですから、「実は自我なんて存在しないんですよ~、それを悟れば解放されますよ~」みたいな主張は聞き捨てなりません。




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「頭で考えるな、体で知れ」にゲンナリ  


僕が何か仏教的な「自我」について考えたり言葉にしたりしようとすると、決まって「あなたは頭で考えているからわからないんですよ、端的に実践を通して体で知るべきですよ」「真実を直接に体験することですよ」みたいなことを言う人がいます。

どんな関連書籍を読み進めていても尽くそう書いてありますし、僕が国内外で出会った瞑想好きの人もそうでした。コメントでも以下の通りです(わかりやすかったので取り上げているだけで、書いた本人に対する嫌悪感情があるわけではありません)。

>普通に暮らしていても理解できなくて当然だと思います。ブッダは瞑想で実体験したことしか話していません。だから原始仏教は自分も徹底して肉体的な経験を平静かつ客観的に見つめることでようやく理解可能になります。本を読んだり思索をするのみで先人が言っていることを理解するのは無理です。
>実際、私も初めは疑いを持っていましたけど、正しい方法で続けたら誰でもきっと理解できると思いますよ。繰り返しますが、肉体的に経験しないと本当の理解はできません。

瞑想コースのレクチャーでも、

瞑想は哲学のような知的娯楽ではありません

としつこく明言していました。この言い方一つとっても、「頭での理解」に対する蔑視ないしは軽視を感じるわけです。

確かに言ってることはわかります。体験しないとわからないことがあるのはわかります。しかし、相互理解をそこで終わらせてしまう一刀両断にゲンナリします。人がどうにかして知ろうとする努力をバッサリ切り捨てるようなあの「体験主義」みたいなのはどうにかならないのかなと思います。

僕は自分自身が変わりたいと思っているわけではなく、ただ単に全てのことを知りたいと思っているだけです。そう言うと、自分自身が変わらない限り知ることはできない、といういたちごっこです。

仏陀は何十年修行したとか、感覚を原子レベルまで研ぎ澄まして全身で悟ったのだとか、そんなことを言われても何の説得力も無いわけです。そんなのは「勘違いじゃないの?」と言われて終わりです。そういう権威付けではなく、やはり他人に伝えようとしている限り、言葉を尽くさなければいけないと思うのです。

入り口は言葉であっても、本気で理解しようとしている人は、一種の仮想体験を通じて知ろうとします。僕が体験主義者に対して言いたいのは一つで、人間の想像力をみくびるな、ということです。


それで、実践を強調してくる人は往々にして、僕が「自我」について言っていることに関して致命的な誤解を伴います。

僕はまず、エゴや煩悩を排してゆき、目的や欲望を捨て、外界との垣根を取り除き、「悟り」と言われる状態に至ったとしても、形而上学的な自我、つまり端的に「私」という感覚は残ると思います。しかし、これについては、僕自身が実践して悟ったわけではないですから、それはアナタがまだ知らないだけだと言われれば反論のしようがないです。

そうではなくて、僕が「自我」について言っているのはもっとシンプルなことです。仮に、悟りの状態で一切の自我が失われるとします。「失われる」と言うことは、最初はあったわけです。普通の人間には自我があるわけです。もしも煩悩を持った人が「私は私である」という感覚を持っているのなら、それは端的に人間には「自我」があるということです。それを「実は私なんてものは存在しないのだ」という言い方をするのが全く意味が分からないのです。ただ単に、煩悩がある時は自我があるし、煩悩がない時は自我がないというだけのことです。「実は存在しない」のではなく修行やらなんやらによって「存在したものを消した」だけのことです。

そう言っても必ず「自我が無いという真実は、体験しなければわからないんですよ」と返ってきます。会話が成立しません。「自我を無くすことができる」のと「実は自我が無い」の違いがわからない人たちです。

「自我を無くすことができる」のであれば、あとはただ単に選択の問題になってきます。無くすべきか、携えるべきか。仏教ではとかく自我のマイナスの要素ばかりに注目しがちですが、もしかしたら自我こそがこの世界の究極の目的かもしれませんし、わかりません。もちろん、「苦悩からの解放」を目的に考えるのなら選択は簡単ですが。

しかし、「実は自我が無い」となると、選択もなにもなくなります。単なる幻影である自我を追っ払うのが「真実への道」となるわけです。正解は自我を無くす道にしかないということになります。しかしこれは詭弁です。なぜって、自我は存在するのですから。

体験主義者は、この二つのことがごちゃごちゃになっていることが多いです。ただ単に自我-非自我の一方の極を体験しようとしているだけなのに、いつのまにか「真実を体験する」に置き換わってしまうわけです。もしかしたら、ただ単に自由や幸福を追求しているだけだと足元がふらつくので、「真実」による正当化の後押しを必要としているのかもしれません。




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