寝太郎ブログ

2月10日文庫本発売→『自作の小屋で暮らそう: Bライフの愉しみ (ちくま文庫)』

「求めるから苦しいのです」のはてな  


僕が仏教について見聞きする過程で理解に苦しんだ点は大きく二つある。

一つはこれまで何度も書いてきたように(参照:仏教は何も教えてくれない)、死の虚無や恐怖というものがまともに考えられておらず、むしろ救いとして捉えられている点である。これは問題自体が複雑である。

もう一つは極めてシンプルな疑問である。「現世的な幸福」「現世的な快」をどうにかしたいと思って仏教に関心を持つ人はいないのであって、あくまで「現世的な不幸」「現世的な不快」をどうにかしたいというのが多くの人の願いである。ところが、仏教の処方箋は「求めるから苦しいのです」としてそもそも快不快というシステムそのものにメスを入れてしまうので、不幸を遠ざけ幸福を招くどころか、何もかも諦めなければならないと(少なくとも表面的には)言っている。仏教でも瞑想でも文字通り理解してゆけば多くの人がつまづくであろう部分である。

これに関しては、いろんな仏教解説書がいろんな応答をしているのだが、その応答の多様性がかえって不信感を増長させる。快も不快も観察するだけで消えはしないのです、とか、実存的自我に立ち戻り快も不快も謳歌するのです、とか、真に理解するためには輪廻や永遠性の視点が必要、とかである。こんなに単純な、しかも入り口にある問題なのに、何を読んでもスッキリしたことはなく、どこか都合が良すぎるというか、人々に受け入れてもらえるようにパッチをあてているようにも聞こえる。

煩悩なんて80歳にもなれば嫌でも自然と消えていくであろうものを、なぜ20や30で消す、あるいは対処しなければならないのか。少なくとも僕はまっぴら御免である。くだらない煩悩は消してもいいかもしれないが、その全てを消すことが賢明とは思わない。 もちろん心から納得すれば全てを捨てて飛び込んでもいい。しかし今のところ何を根拠に言っているのかよくわからないことが多すぎるし、もしも仏教の言うことが何かしら間違っていたとしたら、それに従うことは丸々人生を捨てるようなものである。

永井均が「仏教を含めいかなる宗教もルサンチマンである可能性がある」と言っている(最近いろいろ読んだ本のどこかで言っていたのだが、どの本か忘れてしまった)。つまり、現世的な悩みを抱える人に好都合なように、本来「よいこと」であるはずの欲望の追求や自我の構築を「悪いことだ」「慎むべきことだ」 として、大掛かりな価値の転換をすることによって、信者を抱え込んできた可能性がある、ということである。この是非はわからないが、少なくとも「得られなくて苦しいです」に対して「求めるから悪いのです」という応答は、まさにこのルサンチマンの構造を持っている。ただし、「悪い」などというタームは絶対に使わなくて、「良い悪いといった物語付けをしてはいけません」などとされていて、その辺がとても巧妙なのだが。




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仏教は何も教えてくれない  


山下良道の「雲としての私」と「青空としての私」という概念がある(参考『青空としてのわたし』)。「雲」というのは現世的な物語、価値判断、煩悩、人としての特徴などのあれやこれやで、しかしその雲を取り除いていってもやはり「私」があって、それが「青空」と表現されている。「青空」は哲学で言う「実存」の概念に近いが、「実存」のほうは文脈によって多様な意味を持つので、「青空」というのはとてもわかりやすい言葉だと思う。この記事はこれらの概念に対する批判ではないが、タームとして便利なので使わせていただく。

仏教の問題意識、克服すべき課題というのは徹底して「雲」のほうに向けられていて、雲はまさにあのとおり生じては形を変えて消えてゆくような無常なものですよ、自分と雲とを同一視してはダメですよ、というのが仏教の基本的な教えだと思う。

一方「青空」のほうはほとんどノータッチで無条件に崇め奉られているのだが、僕は本質的な問題(世界がどうなっているかという問題と生きる上での問題と両方)は「青空」のほうにあると思う。なぜなら、「死」というのは「雲」の対極にあるものではなく「青空」の対極にあるものだからである。「雲」が無くなるということが耐えられないのではなく、何もないはずの「青空」がさらに何もなくなるのが耐えられないのである。

もちろん、この考えが矛盾を含んでいるのはわかっている。「雲」の外に出ることはできても「青空」の外に出る(=死を思う)ことはできないからである。出たと思っても、意識して考えている限り、やはりそこは依然として「青空」なのだ。しかし、それでも、出てしまう、考えられないはずの「真の無」というものを考えてしまう、それが人間である。だから『〈仏教3.0〉を哲学する』にあるように、「実は人は死ねないのだ」というような納得の仕方は理屈としてはわかるけれども僕には(今のところ)できない。

個人的なことを言えば、幼いころに「死の観念」に思い至って以来、その「死の観念」の対極にある「私」、すなわち「青空としての私」というものは全く変わらない。それ以前の「自我」ははっきりしなくて、そのときそのときの断片的な記憶があるだけで、まさに「変わる」とはああいうことを言うのだろう。だから「死の観念」と「青空としての私」というのはセットなのだ。もちろん僕には「雲」が「青空」を覆うくらいたくさんあるし、それによって悩んだり成長したり大人になったり変わったりする。つまり自分の「青空」に流れている「雲」に関して達観しているわけでも何でもないが、究極的には「雲としての私」の問題なんてどうでもいい。根本のところで昔のまま変わっていない自我、自分にとってそれこそが「自我」であり、そこにこそもっとずっと深刻な問題があるのであって、仏教における「雲としての私」に関する無我や無常の教えなどは、まあその通りだけど、というくらいのものである。むしろその「深刻な問題」にとっては、一番単純な意味での煩悩や執着心が救いになったりもする。

「雲」はとても良い形をしている時もあれば、悪い形をしている時もある。悪い形をしている時、これを消去してしまいたいという感情が、ときとして自らを観念的ないしは肉体的に「死」に接近させることがある。しかしそれは全くの錯誤であって、雲を除けば青空があり、死というのはさらにその青空の対極にある。だから、自己消去的な感情に襲われた人はまず、死ではなく青空へと、実存へと、生そのものへと向かうべきである。青空になったら人生の悲喜交々も無くなってしまうではないかと案ずることはなく、依然として雲はあったりなかったりする。だから、青空へと向かうことによって何かを失うことはない。

雲が消えることと青空が消えることの区別がつかないような状態は、主として、雲と青空とを混同してしまっていることによるのであって、これは確かに仏教の否とするところであるし、特に現代においては意味のある教えだろうと思う。ところが、釈迦が四苦、すなわち「生老病死」などというときの「死」はまさにその錯誤としての、現世的な苦としての「死」しか扱っていないように思える。だからいとも簡単に「わが解脱は不動であって、これが最後の生であり、もはや再生することはない」などということが絶対善として挙げられていて、肝心の「真の無」については一言たりとも言及されない。換言すれば、確かに「青空へと向かうことによって何かを失うことはない」のだが、これは「青空に気付くことで全てを失う」ことと背中合わせなのだ。

結局、仏教は何も答えてくれないのである。




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