寝太郎ブログ

2018年12月6日雑誌発売→『kotoba(コトバ) 2019年 冬号』特集・孤独のレッスン

徒然、表現など  


自分と多少なりとも交流のある人やネット上で見聞きする人は、小屋で暮らしていたり車で暮らしていたり、そんな人ばかりであり、「水タンクを使ったシャワーのシャワーヘッドはコメリのしっかりしたやつだと水圧が足りずに使えないので100均のほうがよい」とかそんな会話が当たり前、僕自身も最近比較的まともな部屋でまともな暮らしを半年ほどしていたとはいえ、もう路上に寝たり小屋を建てたりしてかれこれ8年?9年?、こういう暮らしが当たり前になっていて、たまに全く新しい人脈ができたりして話をすると、とても驚かれて、あぁ驚かれることをしているのだと思い出す。昔はコメント欄なんかに「嘘に決まってる!」みたいなことを書く人がいて、あぁ嘘だと考えないと納得できないことをしているのだと定期的に自覚するチャンスもあったが、今はもうそういうのも無くなったし、人と話すときも昔のように気を遣って適宜うまくぼやかしたりとか、たとえば「土地を買って自分で家を建てて暮らしてます」と言えば「自分のお金で家を買って暮らしている」と解釈されて怪しまれないし嘘もつかなくて済むだとか考えたものだが、もうそういうことを考えるエネルギーも無くなってきている。あまり暮らしに浸りすぎると、たとえば「何か書いてください」と言われても、何が驚くべきことか、何を書くべきなのか、もうわからないのである。日本から出たことが無い人が日本について書けないように、百姓しかやったことがない人が百姓について書けないように、何かについて考えたり書いたり表現したりするためには、必ず外部からの視点を確保しなければならない。自然について語る人は必ず自分の中に自然ならぬものを抱えている。しばらく小屋を留守にして帰ってきたときはまたいろいろ書きたいという気持ちに溢れているのだが、少し生活しだすともうそれが当たり前になって、脳みそがゆるゆるしてきてしまう。前に本を書いたときに表紙の紙版画を描いてくださった方が、「自分の中に二重性を抱えている人は表現をしたほうがいい」と仰っていたが、まさにその通りで、逆に言えば表現し続けるためには必ず自分の中で二重性を維持し続けないといけない、まあマストかどうか知らないが、二重性をうまく飼い馴らしておいたほうが手っ取り早いのは確か。こっちの自分を見るあっちの自分と、あっちの自分を見るこっちの自分と。本当に若かりし頃は、たとえば山への憧れが逆に都市への依存を、純粋なるものへの憧れが逆に不純さを、証明しているような気がして、それらをシームレスに、一つのものにしなければならないと躍起になるものだが、二重性を抱えていること自体がかなりエネルギーが要ることで、若いからできることなのだとも思う。




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バレンタインデー、徒然書きます  


ソローが『森の生活』の冒頭部分でこんなことを言っている。

物を書くのは、畢竟、一人称である。

つまり、一人称で書くぞ、自分のことを書くぞ、文句あるか、と宣言しているわけである。

一人称で書くということは、私のこと、私に起こったこと、私が思ったこと、私の好き嫌い、私の感情、そういうことを書くということである。

大学の研究室にいると、基本的に「一人称」というのは認められない。僕個人がこうしたとか、僕個人がこう思ったとか、そういう個別的なことは、だからどうしたと言われて終わりである。事実ならば再現性が、思考ならば論理性が、要求される。「私は・・・と思う」という文章は書けないのである。

僕も大学院にいた頃は、自然と頭がそういうふうに改造されていって、一人称はいけないことだと思っていたし、自分が何かの拍子で「これが好き」と言った瞬間、「自分がそれを好きかどうかなんて相手にとってはどうでもいいよな」と思って恥ずかしくなった。

たまに書籍を読んだりすると、その一人称の多さに憤慨したものである。たとえば「私は・・・が反吐が出るほど大嫌いである!」と書かれているのを読んだだけで、その著者からは「甘え」のようなものを感じ取った。だって、その著者が好きか嫌いかなんて知ったこっちゃないから。好きか嫌いかというのは、生活するうえで、家族的な距離にある人間と行動を理屈抜きで一致させて一緒に生きてゆくためのものであって、逆に筆者と読者のような遠い距離にある人間間で使うようなものではないはずである。

事実として、一般書籍というのは、好悪感情とか、共感とか、筆者の熱量とか、目的や価値観や方向性の一致とか、そういうもので成り立っている部分がある。一言でいえば、大なり小なり「心の繋がり」に頼っているのである。

一方、論文というのは、基本的に著者と読者の心は切れている。というか、切れていなければならない。心が切れていても伝わることしか真実ではないとされている。査読(論文が学術雑誌に載るかどうかの審査)は原則ブラインド、つまりそれを誰が書いたかわからない状態で為される。もちろん、書き手の熱意がどんなに伝わってきても、あるいは書き手の生き方にどんなに賛同したとしても、そういう共感は点数にはならない。

どうしてこんなことを突然書いているのか。最近永井均の一連の著作を読んでいて、永井は「私」つまり「一人称」について論じていて「たくさんの意識がある中でこの一つだけがなぜか自分のもので、これって不思議だよね」と言うのだが、まあこれが不思議かどうかは意見が分かれるとして、「不思議だよね」と他人に同意を求めた時点で、「自分にとっても不思議」「他人にとっても不思議」ということで自分と他人の間で一人称の等質性を前提としているので、その「私」の異質性ないしは唯一性の不思議さが崩れてしまうという、そんな議論を繰り返している。それで、考えてみると全学問領域の中で「私」を扱うことが許されているのは哲学だけだと、そんなことを思ったのである。私が。

さて本日はバレンタインデー。「僕はこういう食べ物が好きなんだよね」「私はこんな暮らしが好きだわ」そういう会話が始まったら、互いの好き嫌いを了解して一緒に生きてゆく準備が始まっているということである。「バナナが嫌い」と言っている彼女に「なぜバナナが嫌いなのか」と問い詰めてはならない。理屈抜きで「バナナが嫌い」という前提のもとに行動しなければならない。家族的な距離というのは、一人称を使っていい距離なのだから。




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自分のことを書く  


ひょんなことからゲストハウスの人(日本人)に僕のブログを認知されて、さっき「自分のことを書くのって恥ずかしくないすか?」と言われた。

「全然」と答えたが、たぶんこのあたりの感覚が僕は人とズレてるんだろうなと思う。他人のことを書くのはすごく気を遣うが、自分のことなら嫌な思いをするとしてもどうせ自分だけなので、書きたい放題である。

どうして自分のことを書くと恥ずかしいのだろうか。いまいちよくわからない。

「自分のことを書くのは難しい」ならわかる。それは、自分のことがよく理解できていないから難しいということではなくて、基本的に「自分のこと」なんて誰も興味が無いのであって、誰にも聞いてもらえないのであって、最初からハードルが高いのである。それでも読んでもらえるように書かなきゃならない。だから難しい。

僕はしばらく研究室にいたので、そもそも「自分のことを書く」ということを禁じられてすらいた。いかに一人称や内観に基づいた考察であっても、どこかで客観性、一般性、普遍性と繋がらないと価値が無いとされる。それもまあ、わかる。

あるいは、日常会話において自分のことを長々と話すのは迷惑だし鬱陶しい。文章として書いて公表して、読みたい人に読みたいときに読んでもらうのは、別にその種の迷惑はかからないはずであるが、とにかく「他の話が聞きたいのに鬱陶しい」という感覚は少しわかる。

けれども、これらはいずれも「恥ずかしい」という感覚とは異なる。恥ずかしいということは、普通「自分のこと」は隠すべきものであって、それを曝け出すと恥ずかしい、たぶんそんな意味なのだろう。だとすれば、僕がわからないのはこの「自分のことは隠すべきもの」という感覚なのだろう。

もちろん僕も自分について何から何まで公言したりしない。そんなことはする必要がないし、不可能なことである。だから選んで言う。言うということは、選ぶということである。選んでいるのだから、選ばなかったものもあるということ。

ということは、「自分のこと」の中で公言すべきこととすべきではないこととの取捨選択が、他人とはズレているという、ただそれだけのことなのかもしれない。

そういえば思い当たる節があって、僕は「他人のことはあまり興味が無い」とよく言うのだが、興味があるとすれば、究極的には「一人になった時に、たとえば夜、布団に包まった時に、どんなことを考えるか」というようなことであって、どうせそんな話は聞けないと諦めているから「他人に興味が無い」と言ってしまっているような気がする。




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発言における自己同一性の重要性  


発言というのは事実上、そのほとんどが評価や解釈や物語から構成されている。知識や事実に言及しているように見えても、ほとんどの場合その真偽は確認できないのであって、その知識や事実の使用にも発言者の評価や解釈や物語が反映されている。そして、評価や解釈や物語というのは、評価者や解釈者や物語の語り手の知識や価値観、物語の描き方に本質的に左右される。

つまり、「彼は素晴らしい/ろくでもない」「彼はこういう人間なのだ」「彼はこういう目的で行動しているのだ」などと言った、評価、解釈、物語に関する発言は、「自分にとってそう見えているだけ」という決定的な反論の可能性を常に内包していることになる。

したがって、発言を説得的なものにするためには、「自分にとってそう見えているだけではない」ということを明らかにするためにその努力の九割九分九厘が割かれなければならない。そしてそれは本来は、言葉を尽くすことによって為されねばならない。

ところが、純粋数学のような本当にごく一部の分野を除いて、どんなに小さな主張であっても、「自分にとってそう見えているだけではない」ということを本気で説明しようとしていると、一冊の本になってしまう。

そこで重要なのが、自己同一性・アイデンティティである。つまり、その人のそれ以外の言論や、その人のバックグラウンドとどのように繋がっているのか紐付けされるようにしておかねばならない。前の発言と今の発言が同一人物であることをはっきりさせるということが最低限の必要条件なのである。

そのためには、実名やプライベートや身体を晒す必要は必ずしも無い。実名を晒すということは、自己同一性を確保するためのごく簡単な方法の一例に過ぎない。たとえばブログのような媒体で、言葉を積み重ねていくだけで充分である。

芸術は違う。芸術は「私にとってはこう見えるのだ」ということを存分に垂れ流してよい、むしろ垂れ流せば垂れ流すほど価値があるとされる場所である。居酒屋の酔っ払いの会話も違うし、何らかの現実的な活動のための発言も違う。それらの言葉は人の心身を動かすためだけに放たれる。

繰り返すように、もし自己同一性を確保しないのならば一つの発言で言葉を尽くすべきだし、言葉を尽くす余裕が無い(普通はそんな余裕は無い)ならば自己同一性を確保すべきである。断片的でしかも自己同一性の無い発言というのは、無意味であり、会話は成り立たないはずである。

もしも、断片的かつ自己同一性を確保しない発言で会話が成り立つとすれば、それは単に、人間の持っている価値観の最大公約数を取って、その狭い言語空間の中に留まっているに過ぎない。これが、匿名的な言論空間がしばしば、人の外見や経済的観点、優劣、勝ち負けなどの決まりきった「最大公約数的言語」に収縮してしまう理由である。




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