寝太郎ブログ

2018年12月6日雑誌発売→『kotoba(コトバ) 2019年 冬号』特集・孤独のレッスン

『糧は野に在り 現代に息づく縄文的生活技術』かくまつとむ  


僕みたいな普通の現代人が、自分自身の閉塞感からアンチテーゼとして思い浮かべ、憧れ、導き出すまさに「カウンター」であるところのカルチャーを、あたりまえにやっている人たちの話。

六人の子供を一人前に育ててからすぐに奥さんと別れ、奄美に建てた小屋にひとりで住んでいる元武光さん(1941年生まれ)。村で一番貧しい家の長男に生まれた元さんは、子供の頃から毎日、兄弟を食わすために野山を駆け巡り、それが仕事であり、遊びであったという。

今でも、森や川、海で採れる自然の幸で自給生活している。シイの実、若芽、タケノコ、木の実、キノコ、カニ、魚、ウナギ、ハブ、イノシシ、etc...。河口では、4mの竹竿と現地調達のエサで、クロダイまで釣ってしまう。

裸足で歩きまわり、グミやタラの木を煎じて飲む元さんは、薬知らず、医者知らず、病気知らずだという。

畑で野菜と果物も作っているが、いわく、畑無しでも充分に生きてゆけるらしい。著者のかくまつとむさんは「縄文を感じた」と記している。

米や調味料などは物々交換で得る。

さらに興味深いことは、その場で交換されるわけではなく、事前に、あるいは後日あらためて持ってくる形であることだ。交換経済というよりも贈与経済に近い。(p.37)

欲しいという人に気前よく分けると、コメや調味料になって返ってくる。元さんが嗜まないビールや焼酎を持ってくる人もいるが、それを人に回せば、いつかまた別なものとなって到来する。ウナギの代金だといってお金を持ってくる人もいる。元さんは素直に受け取るが、自分から額を示すことはない。(p.93)

写真も豊富で300ページ、楽しめた。こういうのを読んでしまうと、憧憬が膨らむどころか、自分は一生こういうふうにはなれないだろうな、自分とは違う人間、自分とは違う世界だなと、何か清々した気持ちになる。




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『人間は脳で食べている』  


タイトルの「脳で」というのは多義的な言い方だが、この本の主題に沿えば「情報で」ということである。食品に関して予め得られた情報が、「おいしさ」に大きく影響する。

「おいしさ」の研究家である著者によれば、「おいしさ」には四つの構成要素がある。

1.生理的なおいしさ
 動物や人間は生理的に欠乏している栄養素や物質がわかり、それらを含む食物をおいしいと感じる。

2.中毒的なおいしさ
 油脂、甘味、塩分など、快感によって脳の報酬系が強化され、中毒症状を示すおいしさ。高度の嗜好性食品などを含む。肉体的な欠乏や充足とは無関係に食べてしまう。

3.文化的なおいしさ
 国、民族、地域、家庭などの集団の中で継承されている味付け、食べ慣れた味をおいしいと感じる。周囲を模倣することによる安心感や、記憶の反復に由来する。

4.情報的なおいしさ
 テレビCM、ネットや雑誌の広告、口コミ、店頭表示、価格、ランキング、キャッチフレーズ、解説、産地、「天然モノ」表示、他人の感想、ブランド、賞味期限、調理師、JASマーク・トクホマーク、パッケージ、健康増進・ダイエット機能、行列、接客、etc・・・

1と2が動物的な「おいしさ」であり、3と4が人間に特有の「おいしさ」である。

本書はこのうち「4.情報的なおいしさ」に関する本だということだが、特に4に関して深く掘り下げているという印象はなく、どちらかというと「2.中毒的なおいしさ」に関する解説の比率が大きかった。

いずれにしても、こうした分類によって、日本をはじめ現代先進国の人間の食事は「2.中毒的なおいしさ」と「4.情報的なおいしさ」に比重が偏りすぎているということを再確認することができる。

いずれの「おいしさ」も、元来は安全対策・栄養判断のための合理的なシステムであるが、2や4は商業的な観点から簡単に利用され、「スカスカ」の食事ができあがりやすい。

ちなみに内容とは関係ないが、この本は鍵括弧の使い方が非常に独特で、おそらく「世間の声」や「読者の反論」、「どうでもいい野次」のような意味で唐突に使われる。個人的にはかなり邪魔だった。文体に拘りのある人は要注意。

P1050488.jpg




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『ドングリと文明』W.B.ローガン  


ドングリと文明
狩猟採集の移動生活から、農耕牧畜の定住生活へ、というのがこれまで定説とされてきた大まかな人類史であった。
著者ローガンの仮説によれば、この二つの生活形態の間隙を埋めるのが「ドングリ文化」であるという。

大型哺乳類を追いかけていた人々の足を止めたのは、米や麦の栽培ではなく、ドングリを雨のように降らすオークの森であった。ドングリ文化こそが、家を建てて定住し、安定的な主食を摂って、文明や技術を拓き、そして人間らしい思索を可能にした。

ドングリは、栄養豊富で、手に入れやすく、貯蔵も簡単であった。面倒なのはアク抜きだけだが、どこのドングリ文化でも優れたアク抜きの手法が伝えられてきた。ドングリを拾う労働量は、麦を収穫して同じカロリーを摂取するのに要する労働量の十分の一であるという試算もある。

また樹木は家屋を始めとするあらゆる家具や乗り物、建造物の材料となった。そうして、オークの森を中心として文明を展開して後、その周辺で羊を飼ったり、麦を育てたりし始めた。いわゆる農耕牧畜生活のはじまりである。

以上が、ローガンの仮説である。なお、これは学術書ではない。あくまで一作家の仮説である。

日本は縄文時代からはじまって、世界でも最も近年までドングリ文化、あるいはもう少し広い意味での「雑木林文化」が存続してきた地域である。しかし日本らしいカシ・ナラ文化も、石炭と石油との産業革命によって、いわば木製品の模造品の文化へと変わり果てた。

とは言え、カシ・ナラ・クヌギは生え続けているし、ドングリはほとんど放置されていて、拾っても誰も文句を言わない。こっそり一人で「ドングリ文化」を復活させれば、日本全土が自分の定住地みたいなものである。



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『わら一本の革命』福岡正信  


自然農法 わら一本の革命健全な作物を作れば、人間が農薬を使わねばならないほどの病気や害虫は発生しない。耕作法や施肥の不自然から病体作物ができ、自然がバランスを取り戻すための病害虫が発生し、消毒剤が必要になる。

肥料も農薬も機械も、わざわざ人間がそれらを必要とする条件を作ってきた。余計なことをするから、さらにしなければならないことが増えて、雪だるま式に膨れ上がったのが近代農業であり、近代化の全てである。何もせんのが一番いい。
「自然」というのは、余計なことをしないこと。だから、自然農業や自然食というのは、最低の労力と費用でできるはずだ。

こうした著者の考えの真偽や成果など、営農上の細かいことは僕にはよくわからない。
しかし、「健全な作物は敵か味方か」「農業に自然本来のバランスは存在するのか否か」などの点において、先日紹介した『病気はなぜ、あるのか』とコントラストを為していて面白い。

僕の机上論では、福岡さんが、農業という営み自体がずいぶんと不自然なものである、ということを忘れているだけのように思える。「口にするものの自然さ」を言い始めたら、狩猟採集の時代に戻らなければならない。
餓死の恐怖から逃れ、食の安定を得ようとした不自然さの代償は、農薬であれなんであれ、あって然るべきで、「妥協点を見出して毒を口にしてきた」という進化的観点のほうに分があるんじゃないだろうか。

著書の半分くらいは、農業に関する思想を一般化したもので、こちらははっきりと胡散臭い。
筆に勢いがあるのは、立脚点からして問題を避けているせいだろうと思う。つまり、人間は自然の一部であるという、最も怪しげな公理を掲げ、数々の結論を導き出している。
たとえば、偉大なる自然のことなど、その一部である人間にわかろうはずもない。それを専門分化された科学者がわかったような顔で部分的にいじろうとするから、今度は別の箇所に歪みが生じて、どんどん悪いほう、面倒なほうへと転がり落ちていく。
「分かる」というのは「分ける」に過ぎないんだ。人知は分解された自然の近視的把握でしかない。それは本当に知っているということじゃないんだ。
人間の体も、反自然的になると、反自然的なところでバランスをとらなくちゃいけなくなって、科学により分解して理解された反自然的な模型としての体のための食生活になり、しまいには不健康なものをおいしいと感じるようになる。
争いも、動物のような争いに留めるべきで、戦争は不自然だ。
・・・といった具合。
そして、食と農に関して一つの回答をしたうえで、今度は「一事が万事だ」といって、普遍思想に戻す。そうすると読者は一般的な真理が得られたかのような錯覚に陥ってしまう。

僕は、人間というのは不自然で異様な存在だと思う。
死を知った人間が、より生を確実にしようと自然の一部を固定して支配しようとしたのが農業ならば、田畑に生命の輝きどころか死臭が漂っていてもおかしくはない。
それが出発点で、それを無視することはできない。

人工物に反発して、自然的な生き方、より動物に近い生き方を薦める著作ってすごく多い。それらをどうも冷めた目で見てしまうのは、自然を見すぎて人間を見ていないからだ。言葉や科学で事実を切り刻み時間を止めようとする人間の「異様さ」を、独断的に間違いであると決めつけるからだ。
生きているうちに畑やりたいなぁとは思うけど、自然の循環に身を投じて「これが生きることだ」という大いなる勘違いをしたくはない。

ただ、この提案には一票入れておきたい。
一反で、家建てて、野菜作って、米作れば、五、六人の家族が食えるんです。自然農法で日曜日のレジャーとして農作して、生活の基盤を作っておいて、そしてあとは好きなことをおやりなさい、というのが私の提案なんです。
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10万円で家を建てて生活する寝太郎のブログ

ストーブの熱を湯たんぽに入れて取っておくことを3年間思いつかなかった。



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