寝太郎ブログ

2月10日文庫本発売→『自作の小屋で暮らそう: Bライフの愉しみ (ちくま文庫)』

『日本の七大思想家』小浜逸郎  


41QrIEon5YL3.jpg日本の七大思想家 丸山眞男/吉本隆明/時枝誠記/大森荘蔵/小林秀雄/和辻哲郎/福澤諭吉 (幻冬舎新書)

「日本の七大思想家」の一人に哲学者の大森荘蔵がピックアップされている。「意識」や「時間」といったような「ザ・哲学」的な主題に終始した大森が一般書において言及されるのは極めて珍しく、どんなふうに書かれているのか興味があった。

ちなみに僕は、「哲学に興味があるのだが、何か読みやすい入門書を紹介してほしい」と言われたらだいたい大森の『流れとよどみ―哲学断章』を薦める。哲学の基本的なテーマがエッセイのような雰囲気で並んでおり、なおかつ、哲学に生き方や人間臭さを求める人とそうでない人を大別するための踏み絵にもなるからである。小浜も曰く、

現代の哲学も・・・「何が善であるか」「人はどう生きるべきか」といった倫理学的な主題については、極力禁欲を決め込むようになった。・・・大森哲学も、もっぱらこの世界がどうなっているかを極めようとする情熱のみによって成り立っていると言っても過言ではない。(p.213)

さて本書の大森の項で扱われているのは、「主客二元論克服への情熱」である。主客二元論とは、簡単に言うと、この世界を精神(認識する主観)と物体(認識される客観)との二つに分ける世界像のことである。デカルトの心身問題をはじめとして、精神と物体の両者がどうやって関係しうるのかというような問いは、当然、主客二元論という世界像を前提としている。また、現代の文明人が多かれ少なかれ当然のものと感じている世界像でもある。

大森はそのような二元論に対して否と言い続けてきた。それは現代人から「自然を活き活きと感じ、自分をその一部として感じる、あの感性を奪った」とさえ言う。

主客二元論に対する大森の代案は、我々が「主観」だとしてきた心的性質が、実は客観的な性質としてそこにあるのだ、とするものである。たとえば、富士山を見たときの我々の知覚像は、光波や脳細胞興奮が原因となって生じるものではなく、富士山という自然そのものが持っている心的性質である、といった具合である。

陰鬱な空とか、陽気な庭とかいうとき、陰鬱や陽気は私の「心の状態」ではなく、空自身の、庭自身の性質なのである。(p.234、『知の構築とその呪縛』より孫引き)

大森の主張が哲学全体の歴史から言ってどれだけオリジナリティのあるものなのか、また、それがデカルト的な心身問題に対してどれほど有効に機能するか、無論いくらでも疑義を差し挟むことはできる。本書で小浜が「大森哲学の根本的な欠陥」と指摘しているのは、「他人の痛みを自分が感じることはできない」というような、大森自身が「鉄壁の孤独」と形容した、「独我論的思考様式」である。

独我論的な把握から人間理解を出発させる方法は、・・・「心」を問題とするときに、人と人との間に起きる相互作用の現象としてそれを扱うことができず、常に「自然」との関係に限定してしか論じることができない。(p.277)

確かにその通りだと思うのだが、しかしこの「欠陥」が、それまで紙幅を割いてきた大森の主張のどこにどんな問題をもたらすのか一切書かれていないので、若干拍子抜けというか、ざっくりとした文学的感想に留まっている感がある。

いずれにしてもそうした「独我論的思考様式」に相対するものとして、小林秀雄を挟んで二つ後の章で和辻哲郎が取り上げられている。和辻の哲学は、個人意識をその出発点において人間を把握しようとする西洋哲学に対して、

「人間(じんかん)」すなわち「ひと」同士の「間柄」を出発点として、その間柄における相互の「実践的行為的連関」を原理とする。(p.354)

こうした日本的な人間把握の応用として、たとえば当ブログとの関連で言えば、今日「贈与経済」と呼ばれている類のものについて日本ではかなり早い段階で言説化しているのも和辻である。

「欲望充足を目的とする私的経済人」という近代西洋の発想になる経済学的仮定から経済的組織を論じることは、特殊な歴史的社会的事情から発したものであり、経済組織に本来備わっている人倫性の事実を見ようとしない偏頗なものである(p.401)

それにしても、和辻はまだしも、大森がこのラインナップの一角を占めているのは本当に異様な光景であった。このような並びはもう金輪際お目にかかれないだろう。




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中村文則、実存  


夜の散歩とラジオが楽しみの最近です。

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ラジオとは違うのですが、KIQMAGAというインタビューマガジンの、中村文則さんのゲストの回を聞きました。

「生きる意味」というものを考えていって、欲望の追求、幸福の実現、承認の獲得などを空虚に感じ、「生きる意味」が「存在の意味」へと変貌してくるとき、一つの答えとしていわゆる実存主義へと導かれることはありうることだと思います。実存主義というのは広い意味をもっている語ですが、とりあえず「今、現に、ここに存在している私」に何らかの仕方で立ち戻ってくる、そうした考え方です。

中村文則がインタビューの中で、

存在の意味というものを考えた時に、お客さんみたいな感じでこの世界に居る感覚が昔からある。

と述べていました。これはまさに、実存の欠如の感覚であり、裏を返せば実存主義的な問いの素朴な表現だと思います。

エゴイズムで自分の幸福を構築していくっていうのがだいたい人生の進み方だと思うんだけど、なんかそういうものにあまり魅力を感じなくて・・・

というわけで、普通の人が普通に獲得する「意味の根源としての私」というものを彼は得ることができないわけです。ところが彼はそれでも、というかそうであるがゆえに一層、自分の存在意義の欠如に思い悩まされることになって、道を歩いていて後ろから来た自転車にベルを鳴らされただけで「おまえはもうこの世界に要らないから邪魔」というふうに聞こえキレそうになるくらい追いつめられたと語っています。

その後、彼は小説家としての成功という非常にわかりやすい承認を経て、最近ではもう「生きているだけで素晴らしい」と言っています。

生きてるだけですごいんですよ、これは。脳の仕組みであるとか、素粒子のメカニズムであるとか・・・。そういう圧倒的な身体メカニズムを持つ自分、個人というのはそれだけですごいので、認められなくても、こうやっているってことだけで充分。

『教団X』もそういう本だそうです。

ここで少し自分との相違を感じるのは、この「生きているすごさ」の意味内容です。脳や素粒子といった構造上のすごさというのは、まだ理解可能なすごさ、理解可能な複雑さであって、奇跡ではないわけです。養老猛なんかも『死の壁』で命について同じようなことを言っていました。養老猛いわく、なぜ命が尊いかというと、「複雑だから」「再現できないから」だそうです。

これはインタビューの中にあった中村文則の飛行機恐怖症の克服の仕方にも表れているのですが、彼は「飛行機というのは物理的に正しい現象なので落ちないのだ」という納得の仕方をしたそうです。つまり、自分には理解の届かない自然現象が勝手に働いてくれているという安心の得方です。

もちろん確かに、到底理解しきれないメカニズムが勝手に働いてくれている、それによって生かされているということはひとつの気づきではあると思うのですが、僕はやはり、もっと存在論的なレベルで次元の違うすごさ、つまりいかに複雑な構造であろうとも到達することができない意識存在というものの奇跡(たとえば、人間とまったく同じ構造を持ったロボットを作ったとして、そのロボットには必然的に意識が伴うだろうか。否である)こそが、「今、ここ、私」という実存の根幹にあるのではないかと思っています。

ただ、どちらが存在の意味をもたらしてくれるか、ひいては、どちらが「安心」をもたらしてくれるか、ということに関して言えば、自然科学の秩序からはみ出した奇跡が生じているのだと考えるよりは、自分も宇宙や自然の秩序の上に乗っているのだと考えたほうがよほど有用だとは思いますが・・・。

彼の話には、「批判をおそれずに自分をさらけだすためのヒント」が詰まっていました。SNSやブログ、本などを通して、何かを発信したいと考えている方にとっては、たくさんの気づきがあると思います。

ということなので、何か発信している人は聞いてみたらいいかもしれません。




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