寝太郎ブログ

2018年12月6日雑誌発売→『kotoba(コトバ) 2019年 冬号』特集・孤独のレッスン

お金が必要  


昨秋、原稿を大方書き終えた頃、河川敷でこんなようなカヤックを買おうとしていて、

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あそこだったら普通に水揚げして自分の土地に置いておけばいいわけで、カヤックがあれば中洲に上陸して農地開拓できるかなり上流のほうまで漕いで行って楽しめるかなと思い、ヤフーオークションで購入寸前までいったのだが、ちょうどその頃どうやら僕の頭はおかしくなってきたようで、カヤックどころではなくなって、結局一旦東京へ出てきたのだった。

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カヤック計画は頓挫したのだが、河川敷の土地はとても気に入っていて、実際は今使っている面積よりもずっと横に広く使えるので、改めて河川法を見返しながら、思い切って別荘でも建ててみようかと思って河川管理事務所に相談したのだが、河川区域における工作物設置というのはいわば、建築における建築確認(基本的にOK)ではなく建築許可(基本的にノー)のようなもので、いやそれよりずっと厳しいようで、「周りにけっこう作業小屋みたいのも建ってるんですけど」と食い下がってみたものの、「ああいうのは全部違法です。大きなものから、水に近いものから、指導しているところです」と言われて、とにかく百パーセント無理ということで許可申請を出すまでもなく一蹴されてしまった。

他にも最近いくつか畑に使えそうな土地を見に行ったりしていて、なかなかいいかなと思って登記謄本を取ってよく見たら担保に入っていたりして、まあインターネットから探しているようでは自分だけがそんな掘り出し物の物件に巡り合えるわけがないのだが、なにひとつうまくいかないもので。

ちょっと小屋建てて土いじりしたいだけなのに何十万、何百万も払わなければいけなくて、そりゃあ開拓民ではあるまいしゼロからやるわけにはいかないのだが、結局土地とか道具とか、現行経済の決める値段で買わないといけないわけで、そのあたりの個人としての収支を考え始めるとどうせろくな数字は出てこない。

まあ、あんまりコストパフォーマンスだけで物事を考えると、安アパートと100均とスーパーと図書館くらいの最大公約数が出てきてしまうわけで・・・。そういえば、世界で初めて自宅にソーラーパネルを導入したのは『スモールイズビューティフル』『宴のあとの経済学』の著者シューマッハで、当時の費用対効果を考えたらお話にならないのだが、もちろんそこにはシューマッハ個人の収支では量ることのできない意義があった。

えーと、何の話だっけ。

そう、とりあえずお金が必要なので、やはり自分の過去の遺産を掘り返してきて、家庭教師なんかをやっていくしかないのかなと。だいぶ深い地層を掘り返す必要がありそうだが・・・。




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いよいよ食費しかかからなくなってきた  


スマホを新調して通信費が安くなっただけでなく、スマホ自体も高性能になって、パソコンの必要性をそこまで感じなくなった(と言いつつ、これはパソコンで書いているのだが)。

スマホというのは、バックライトを点灯させているときでも、消費電力たった3W。もしも丸一日使い続けたとしても、電力量30Wh、理論的には10Wのソーラーパネル一枚あれば半永久的に使えることになる。10Wパネルというのはこの大きさの半分である。

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また素晴らしいことに図書館という存在がある。

わたしは、図書館資料に関する限り、貧乏な学生といえども、この国一番の金持ちと同様、知的興味に没頭し、追求心にしたがって、権威ある図書を使うことができる、そういう手段を与えておきたいと思う。 アントニオ・パニッツィ(1797-1879、大英博物館館長)

いよいよ必要なお金は食費のみとなってきた。食費を削るのは不可能ではないが、時間と引き換えになるだろう。だいたい、ベースとなる食生活を築いた上でどんぐりを拾ったり山菜を摘んだりするのは楽しいものだが、それで生きていこうとし始めると途端に義務化して億劫になるのは目に見えている。やはりスーパーで好きなものを買って月10000円路線が現実的である。

生活水準を下げる現在生活水準を上げる
テント小屋中古家屋・アパート
移動手段自転車バイク四輪自動車
デジタル機器無しスマホPC
通信手段公衆無線無線契約有線
電気無しソーラー電力会社
暖房体温石油・電熱
食事農耕・採集自炊外食


線の引き方は人それぞれだと思うが、理想と現実とのバランスを考えると、自分としては落ち着くべきところに落ち着いているという気がする。




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高額療養費制度  


いつだかコメントで教えていただいた公的医療保険における医療費の上限制度について。

ポイントは以下の5つ。

・70歳未満の独身低所得者(所得35万円まで、給与収入のみであれば収入100万円まで)は、一ヶ月の合計負担上限額35,400円。

・過去一年間のうち既に3ヶ月以上高額療養費制度を使用している場合は、上限額24,600円。単純計算で、一年間の窓口支払額はどんなに高くても327,600円を超えない。

・医療機関、薬局等での支払いを含む。

・事後申請もできる(入通院時より2年)し、予め入通院が予定されているときは、事前に所得区分の「認定証」(1年間有効)を発行してもらうことで、窓口での支払い自体を抑えられる。その場合、事後申請する必要はなくなる。

・保険診療の対象となっているものに限る(たとえば金歯や差額ベッド代は対象外)。

参照:高額療養費制度(厚生労働省)



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純粋な快楽  


明朝はさぞかし寒かろう。目が醒めて、おお寒い、やはりテントなんてやってられん、山小屋を建てといてよかった、早く薪ストーブで暖まろう、そう思うだろう。よし明日帰ろう。・・・などという予定で寝たのだが、早朝五時半に目が醒めるも全く問題なくヌクヌクだったので即二度寝した。

前日の夜予定を決めて、さらに当日それを覆す。これぞ求めていた柔軟性である。

さて、コメントで「金の話ばかり」とご指摘いただいたので、今日も金の話をしようと思う。


先日の記事でルソーの『告白』から一部を引用したが、その中に、

私の欲しいのは純粋な快楽だけで、金はそれを台無しにする。

という文言があった。

これは一つには(そしておそらくルソーの意味では)、金や交換によって「損得」や「等価性」、「計算的なもの」が加わってくると、信頼は不信へと変わり、隣人愛や相互扶助の精神が途絶え、最近の言葉で言うなら「きずな」が断絶し、中沢新一的に言うなら「贈与の霊」が鳴りを潜めてしまうということである。

高級レストランの丁重なサービスを楽しめるかどうか、あるいは下品な例で悪いが、風俗での性的行為に快楽を感じるかどうか、ということである。ルソーに言わせればそれらは「純粋な快楽ではない」ということになる。

売買か心の絆かという二元論において安易に、かつ必要以上に後者を強調する人を僕はあまり信用していないが、少なくとも、この意味での「金のつまらなさ」はわかりやすい。


金のもたらす等価性が台無しにするものは他にもいろいろあって、とりわけ最近感じているのは「冒険の快楽」である。

一体、冒険はどこにあるのだろうか。

人類にとっての「未開の地」への冒険は、金と科学技術によって勝負が決まる。深海に潜り、山の頂を目指すのは、金がある人間がトップに決まっている。金がない人間がこれに対抗するとすれば、せいぜい自分なりの縛りを作って「素潜りで何メートル潜れるか」みたいな限定されたルールの中で競うくらいだろう。突き詰めると「竹馬で日本一周」みたいなことである。それではつまらない。「登山」だって、荷物を背負って自分の足で登るという一つの縛りである。

僕のテントサイトからはエンジン付きのパラグライダーが空を飛んでるのが見える。あれは金を払えば手に入る遊びである。
どんな趣味も、「どれだけいい装備を整えられるか」「どれだけ最先端の技術を手に入れられるか」という金による競争に参加した途端につまらなくなる。それはお札が1枚か10枚かという違いでしかない。果ては、金持ちはなるべくいいロケットに乗って競って宇宙へ行くようになるかもしれない。それに乗って月まで行って帰ってきた投資家や社長さんが「素晴らしい経験をした」と言うのだろうか。
野宿をするのにあれこれの道具に目が行って車が買えてしまうような装備を整え、野宿をしたいんだか商品を使いたいんだかわからないような人に疑問を感じるのもそういうところだ。

一方、無一文でその辺に放り出されたと想像してみよう。とりあえず今日明日を生きていかなければならない。不安だが・・・健康な男子なら誰でもワクワクするだろう。

無一文は極端だが、つまるところ、純粋な冒険は日常生活にしかない。しかも、日常生活の一部ではなく、その全体にしかない。ただ単に生きること、それが一番の冒険である。
装備を整えてエベレストに登るよりも、その辺の森や河原や街中で単に生きるほうがずっと冒険欲を掻き立てられる。それは、マネーゲームよりも直接的で、かつ、全体性を持ち、そして固有なものだからである。

自分の日常生活という冒険は、決して等価交換されない固有なものである。
「未開の地への冒険」は、冒険である前に競争なのだ。山なんて誰が登ったっていいし、海なんて誰が潜ったっていい、そういう競争なのだ。
自分の人生は自分で送ることしかできない。だから競争できない。

ルールは与えられている。自然と、社会である。
そしてそのルールの中で、自分が偶然得た知識、偶然得た情報、偶然会った人、偶然その辺にあったもの、それらを駆使して固有の冒険をする。自分自身の人生という文脈の中で、冒険をする。僕らが生まれたときそうであったように。

僕自身も純粋な冒険者ではないし、「贈与」と同様に、「純粋な冒険の快楽」も二元論のうちの一つの極であることはわかっている。つまり、「自分の人生」というこの不思議な存在に安寧する極と、それが実はone of them、70億分の一であるという匿名性の極のうちの、前者である。
しかし、札束でも数えるように自分の人生を計量しようとしてしまうとすれば、それもまた二元論のうちのもう一つの極に陥っていることになる。どっちが正しいわけでもないのだ。



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