寝太郎ブログ

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「求めるから苦しいのです」のはてな  


僕が仏教について見聞きする過程で理解に苦しんだ点は大きく二つある。

一つはこれまで何度も書いてきたように(参照:仏教は何も教えてくれない)、死の虚無や恐怖というものがまともに考えられておらず、むしろ救いとして捉えられている点である。これは問題自体が複雑である。

もう一つは極めてシンプルな疑問である。「現世的な幸福」「現世的な快」をどうにかしたいと思って仏教に関心を持つ人はいないのであって、あくまで「現世的な不幸」「現世的な不快」をどうにかしたいというのが多くの人の願いである。ところが、仏教の処方箋は「求めるから苦しいのです」としてそもそも快不快というシステムそのものにメスを入れてしまうので、不幸を遠ざけ幸福を招くどころか、何もかも諦めなければならないと(少なくとも表面的には)言っている。仏教でも瞑想でも文字通り理解してゆけば多くの人がつまづくであろう部分である。

これに関しては、いろんな仏教解説書がいろんな応答をしているのだが、その応答の多様性がかえって不信感を増長させる。快も不快も観察するだけで消えはしないのです、とか、実存的自我に立ち戻り快も不快も謳歌するのです、とか、真に理解するためには輪廻や永遠性の視点が必要、とかである。こんなに単純な、しかも入り口にある問題なのに、何を読んでもスッキリしたことはなく、どこか都合が良すぎるというか、人々に受け入れてもらえるようにパッチをあてているようにも聞こえる。

煩悩なんて80歳にもなれば嫌でも自然と消えていくであろうものを、なぜ20や30で消す、あるいは対処しなければならないのか。少なくとも僕はまっぴら御免である。くだらない煩悩は消してもいいかもしれないが、その全てを消すことが賢明とは思わない。 もちろん心から納得すれば全てを捨てて飛び込んでもいい。しかし今のところ何を根拠に言っているのかよくわからないことが多すぎるし、もしも仏教の言うことが何かしら間違っていたとしたら、それに従うことは丸々人生を捨てるようなものである。

永井均が「仏教を含めいかなる宗教もルサンチマンである可能性がある」と言っている(最近いろいろ読んだ本のどこかで言っていたのだが、どの本か忘れてしまった)。つまり、現世的な悩みを抱える人に好都合なように、本来「よいこと」であるはずの欲望の追求や自我の構築を「悪いことだ」「慎むべきことだ」 として、大掛かりな価値の転換をすることによって、信者を抱え込んできた可能性がある、ということである。この是非はわからないが、少なくとも「得られなくて苦しいです」に対して「求めるから悪いのです」という応答は、まさにこのルサンチマンの構造を持っている。ただし、「悪い」などというタームは絶対に使わなくて、「良い悪いといった物語付けをしてはいけません」などとされていて、その辺がとても巧妙なのだが。




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category: 仏教
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