寝太郎ブログ

2月10日文庫本発売→『自作の小屋で暮らそう: Bライフの愉しみ (ちくま文庫)』

どうしていいかわからない!(直観主義論理の自然演繹では矛盾から如何なる命題でも導出することができる)  


論理学の基本的な証明体系であるゲンツェンの自然演繹には、矛盾(論理記号は⊥)からは如何なる命題でも導き出せるという変な規則がある(より正確には、自然演繹の中に、このような規則を含む直観主義論理と呼ばれる論理体系がある)。記号的に書くと、

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ちなみに、「Aであり、かつ、Aでない」からは矛盾を導出することができる。

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ところで、人間は、意識の内部、時間性の内部、人生の内部にいながら、同時に、その外部に立ってそれを理解し、俯瞰し、思考することができる。ここに、人間存在の根本的な矛盾がある。

自分の人生の内部にいながら、自分で自分を見渡す、つまりその外に立つという矛盾から、死の不安が生まれるのです。この不安は、内側から生きるとき永遠として思われる生と、外から見るとき有限であらざるをえない生との衝突から生まれます。ジャンケレヴィッチ『死とはなにか』p.21

どうやって生きていったらいいのか考えていると、結局のところどんな生き方も許されていることになり、その自由ゆえに逆にわけがわからなくなる。そういう思考パターンを(似非)自然演繹で表すと、

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最初から矛盾を内包しているような存在(=人間)は、必然的に、どうしていいのかわからない。




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野菜日記  


このヤギ、何か言ってますね。

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「見渡す限り御馳走だらけじゃ。人間はその辺の草が食えないから不便じゃのう。」

前も同じことを書いたが、野菜や山菜などの食べられる植物と、食べられない、乃至、食べないとされている雑草の根本的な違いって、結局のところなんなのだろう。

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こちらマルチの上に良く育っていますはホトケノザ。ザ・雑草。ホトケノザ、ザ、ザッソウ。スズナ・スズシロ・ホトケノザと言うが、いわゆる春の七草、食べられるのほうのホトケノザはこのホトケノザではなくあのホトケノザ。どうしてこのホトケノザとあのホトケノザが存在するのか事情はよく知らないが、それは人間のネーミングに由来する人工的な謎なのでクイズマニアに任せておくとして、この場合は食べられたり食べられなかったりする理由は至って簡明で、このホトケノザには毒があり、あのホトケノザには毒がないということ。もちろん毒というのも相対的なもので、大量に食べれば毒のものでも少量ならば薬効があったりするし、動植物界全体を見れば、このホトケノザを毒としない動物も存在するはずである。しかし少なくとも人間にとっては基準は明快で、このホトケノザは毒。

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ホトケノザを除去してゆくとエンドウの苗が一本ヒョロリと出てくる。御存じ、エンドウは野菜。「食べられる植物」の代表格。人間はこちらに愛情を注ぎ、慈しみ、過保護にするが、ホトケノザは忌み嫌い、引きちぎってその辺に放擲する。

ホトケノザは毒があるので明確に食べられない、と書いたが、多くの山菜はそのまま大量に食べれば腹を下す程度の毒は持っているので、我々は毒を処理して食すのだし、特段の毒を持っていない雑草も多く存在する。

それでは雑草には栄養が無いかと言えば、そんなことはない。野菜と比べて少ないというだけで、それなりに栄養がある。なにしろ雑草ばかり食べているヤギがあんなにぽっちゃり太って立派な角まで生やしているのだ。

繊維がかたすぎて食べられないとか、あまりおいしくないとかも、雑草を食べない決定的な理由ではない。かたくない雑草もあるし、すり潰す道具だってある。直接食べてそんなにおいしいとは感じられない野菜もある。だから我々は野菜だって味付けして食べる。

我々がただ単に豊かで、野菜という贅沢なものだけを選んで食べているのだろうか。そういう側面もあるだろうが、やはり決定的な理由ではないような気がする。食糧難の状況にある国々の人たちが雑草を食べるとはあまり聞かないし、我が国の戦時中だってよほど貧してようやく政府から「食べられる野草」などという情報が回ったくらいだ。

そう考えていくと、どうして我々がほとんどの種類の植物を食べないのかよくわからない。特別おいしい植物でなくとも、雑炊や炒飯に混ぜるなどして食べる人がなぜいないのだろうか。

「その辺の野草って食べられるんじゃよ」と言っている仙人風のおじさんも、それは図鑑や人づての「こんな外見をしたもの=こんな名前をしたもの=食べられる」という言語的な、少なくとも記号的な知識であって、何か原理を知ったうえで判断しているわけではない。

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お世話になっている農園は、有機無農薬で小~中規模、いろんな種類の野菜を作っている。工業化された大規模単一栽培とは異なるが、それでもビニルハウスやら資材、機材など、やはり予めそこに資本があって成り立っていると感じる。僕も将来的には自分の畑が欲しいし、自分で食べるものは自分で作りたいが、そういう時に思い浮かべるのはもっとこじんまりとした畑。

野菜の収穫、草むしり、苗作り、ビニルハウス設営などなんでもやらせていただいている。意味のある形で体を動かせる場があるのはありがたいこと。今は端境期と言って、冬野菜と春野菜の入れ替えの時期で、野菜の収穫が少ないらしいのだが、それでも結構いろいろお裾分けをいただいたりしている。

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労働の対価がお金だと、スーパーへ行って結局決まったものしか買わず、自分の論理空間の永劫回帰の中に溺れるしかないのだが、いろんな種類の野菜を選択の余地なく不可抗力的に与えられるとそれを何とか料理するしかなく、これを「出会い」というのだろうと思う。

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小松菜の炒めもの、菜の花の味噌汁、ラディッシュは甘酢漬けにしてみた。ご飯はもう長いあいだ玄米。玄米はいいよー。なにしろ「完全食」という響きがいい。玄米に栄養があるというより、「完全食」という言葉の響きに栄養がある。

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これは夜食。レタスサラダ、ジャガイモ、ほうれん草の味噌汁。

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これも夜食。かき菜という野菜を塩ゆでやマヨネーズ。アスパラみたいに食べごたえがある。

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人間の嗜好に合わせて改良された新種。毒は無く、甘くておいしく、中毒性がある。その辺のスーパーに生えている。




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