寝太郎ブログ

2月10日文庫本発売→『自作の小屋で暮らそう: Bライフの愉しみ (ちくま文庫)』

徒然、表現など  


自分と多少なりとも交流のある人やネット上で見聞きする人は、小屋で暮らしていたり車で暮らしていたり、そんな人ばかりであり、「水タンクを使ったシャワーのシャワーヘッドはコメリのしっかりしたやつだと水圧が足りずに使えないので100均のほうがよい」とかそんな会話が当たり前、僕自身も最近比較的まともな部屋でまともな暮らしを半年ほどしていたとはいえ、もう路上に寝たり小屋を建てたりしてかれこれ8年?9年?、こういう暮らしが当たり前になっていて、たまに全く新しい人脈ができたりして話をすると、とても驚かれて、あぁ驚かれることをしているのだと思い出す。昔はコメント欄なんかに「嘘に決まってる!」みたいなことを書く人がいて、あぁ嘘だと考えないと納得できないことをしているのだと定期的に自覚するチャンスもあったが、今はもうそういうのも無くなったし、人と話すときも昔のように気を遣って適宜うまくぼやかしたりとか、たとえば「土地を買って自分で家を建てて暮らしてます」と言えば「自分のお金で家を買って暮らしている」と解釈されて怪しまれないし嘘もつかなくて済むだとか考えたものだが、もうそういうことを考えるエネルギーも無くなってきている。あまり暮らしに浸りすぎると、たとえば「何か書いてください」と言われても、何が驚くべきことか、何を書くべきなのか、もうわからないのである。日本から出たことが無い人が日本について書けないように、百姓しかやったことがない人が百姓について書けないように、何かについて考えたり書いたり表現したりするためには、必ず外部からの視点を確保しなければならない。自然について語る人は必ず自分の中に自然ならぬものを抱えている。しばらく小屋を留守にして帰ってきたときはまたいろいろ書きたいという気持ちに溢れているのだが、少し生活しだすともうそれが当たり前になって、脳みそがゆるゆるしてきてしまう。前に本を書いたときに表紙の紙版画を描いてくださった方が、「自分の中に二重性を抱えている人は表現をしたほうがいい」と仰っていたが、まさにその通りで、逆に言えば表現し続けるためには必ず自分の中で二重性を維持し続けないといけない、まあマストかどうか知らないが、二重性をうまく飼い馴らしておいたほうが手っ取り早いのは確か。こっちの自分を見るあっちの自分と、あっちの自分を見るこっちの自分と。本当に若かりし頃は、たとえば山への憧れが逆に都市への依存を、純粋なるものへの憧れが逆に不純さを、証明しているような気がして、それらをシームレスに、一つのものにしなければならないと躍起になるものだが、二重性を抱えていること自体がかなりエネルギーが要ることで、若いからできることなのだとも思う。




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category: 表現
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