寝太郎ブログ

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旅の思い出・その1、社会的生きづらさと中島的生きづらさ  


インドの田舎でリキシャ(客を後ろに乗せて自転車を漕いで運賃を稼ぐ、人力タクシー)に乗った。

運賃はだいたいの見当をつけてから交渉するんだけど、どうも、払いすぎたらしい。

金を渡すと、漕ぎ手のおっちゃんはその紙幣に何度もキスをして、天を仰いで神に感謝している。

その感謝っぷりが半端じゃない。客の僕はしばらくそっちのけだ。僕に感謝してるんじゃなくて、神様に感謝してるわけ。


これを今思い返すと、いろんな文脈が見えてくる。


日本で買い物をしていて「ありがとうございます」と言われて、不思議に思ったことはないだろうか。

こっちは、この牛乳は150円なら、まぁ買ってもいいだろう、と思って金を払ってるのに、どうして感謝されなければならないんだ?


インドの庶民の市場で買い物をしていると、こういうことはない。

お金というのは、そのまんま、何らかのサービスをしてやったお礼を、今度は自分が別の誰かにしてもらう権利を保留するためにある。

この前服をもらったから、今度は野菜を誰かにくれてやる。ありがとうもくそも無い。当然の義務と権利だ。


インド人が極端に感謝するのは、自分がしてやった以上のお金が舞い込んできたときだ。


「お客様は神様です」というのは、標語でも何でもなく、そのリキシャのインド人にとっては、まさに文字通り神様が通りかかったという具合なのだ。

まさに、「ありがたい」ことが起こった、だから、ありがとう、神様。


あ、 観光ルート上にいる、旅行者慣れしてしまってる輩はだめ。やつらは、恭しく「センキューベリマッチ」とか「アリガトゴザイマス」とか言ってくる。デリーの都会のデパートもだめ。センキューセンキューうるさい。

そういうのを聞いてしまうと、何のために遥々異国の地へ来たのかという気持ちになる。


それで、つまり、インドではそもそも「儲ける」という概念が無い。ギブアンドテイクで、きれいにペイされる。その媒介として、たまたまお金が使われているだけ。


でも、日本の「商売」というのは、ギブアンドテイクじゃなくて、「儲ける」ということが当然とされている。+αで返ってこないと気が済まない。考えてみると、おかしな話で、みんながみんな儲けられるわけないんだけど、でも、商売というのは儲けるものだ、とされている。


一応、資本主義の理屈としては、生産体制を整えた人間が偉いんだという話なんだろうけど、とにかく、その背後にいる資本家が「儲けさせてくれて、ありがとう」という気持ちが、店員の「ありがとうございます」マニュアルには詰め込まれている。


「社会的な生きづらさ」を感じる人は、こういうことを、すぐに考えてしまうか、あるいは、無意識のうちに感じ取ってしまう。

それで、今お金を払ったことによって、誰かが儲けるために自分が犠牲になったという自覚があるから、今度はそれを取り返すために、自分が奮起しなければならない。

でも、元々そういうことに向けるエネルギーが無い人は、そんなトルネードに巻き込まれていくとだんだん消耗していって、それがあらゆる形で「生きづらさ」となって日常に現れてくる。

そういう生きづらさを感じているほとんどの人は、「自分が悪い」と思ってるようにも見えるけど、この異常な2億総「躁」状態を客観的に見ると、「社会が悪い」とも理解できる。


一方、「中島的生きづらさ」というのは、そもそも店員がオウムのように「ありがとうございます」と繰り返していること自体が気に食わない。

その背景にある、イデオロギーとか、それが正しいか否かなんて、どうでもいい。その店員が、自分がどうして「ありがとうございます」という言葉を口にしているのか、一つも考えたことがないのに、ただ同じ言葉を繰り返す、形骸化してしまっている言動に対して憤慨するのが、(僕の理解する)中島義道。


これはもう、理屈じゃない。もう、そういう人間がとにかく嫌いとしか言いようが無い。心の底から受け付けない。生理的にムリ。

資本主義的な広告の垂れ流しなんかは、その極端な例だけど、別にそれは資本主義そのものに怒っているわけじゃない。


で、憤慨している対象が正しいか否かはあまり関係がないし、自分が何か代替案を提示できるわけでもないのに文句を言うから、頭がおかしい人扱いされる。というか、頭がおかしい。時には、数学や物理を使いまわしている人に対してさえ、憤慨する。


彼には彼なりの言い分がある。

彼は、死の問題に興味があって、意識が生じていることによって真となるものと、意識存在に関わらず真になるものとの境界線に興味がある。彼はその境界線で日々格闘しているのに、「生きる」という文脈の中でのみ真となるものを当たり前だと思って押し付けてくる奴が許せない。なぜなら、ひとたび「生きる、死ぬ」ということを考え始めると、そうそう簡単に「真」と言えるものは見つからないから。数学や物理も然り。


でも、普通はそんなことは考慮してもらえないから、日常生活が侭ならなくなったり、そばにいる人を傷つけたりして、人生がめちゃくちゃになる。で、どうしようもなく生きづらい。



えっと、何の話だっけ。旅?インド?

オチはありません。「その2」もたぶんありません。




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