寝太郎ブログ

2月10日文庫本発売→『自作の小屋で暮らそう: Bライフの愉しみ (ちくま文庫)』

『働かないー「怠け者」と呼ばれた人たち』  


最近はこういう系の本が多い。昔は働くか働かないかという区別自体にあんまり興味なかったんだけどな・・・。


働かない―「怠けもの」と呼ばれた人たち520ページの分厚い本で、読みきるのに時間かかったけど、おもしろい。

話は、著者であるトム・ルッツが、息子の「カウチポテト」を目撃し続けるうちに、怒りを感じ、自分の怒りを冷静に分析するところから始まる。カウチポテトとはつまり、ソファに寝転がってテレビを見ながらポテトをむしゃむしゃ食べているような状況のこと。


マルクス主義の文化批評家ならば、私の怒りをいとも簡単に説明するだろう。私の身体は単純にイデオロギーの無意識な行為体として表出しているのであり、私の怒りは主流の文化的価値を体現しているものだと。

以下、延々と、「怠け者」の文化史が続く。かいつまんでいくと、こんな感じ。(実際にはこの100倍くらいの数の文献が紹介されている。長いので、引用と僕の文とが混ざっています。)


・古代ギリシャ・ローマ・中東の文明において、労働とは概して呪い、奴隷のすること、人間を貶めるものと考えられていた。


・勤労のモラルが内面化していくのは、宗教改革期以降。それまでは、現代的な意味での「怠け者」は存在するはずがなかった。なぜなら、彼らの存在証明は労働の価値を信じないことにあるが、あらゆる人間がすでに労働に反対していた。言ってみれば誰もが「怠け者」だった。


・「天職」という概念も、宗教改革期にできた。天職とは人生における基本的な務めであり、定められた努力をする選ばれた領域であり、そしてそれを決定したのは、ルターらによれば、神である。


・職業の選択を可能にしたのは近代であり、近代世界の若者たちは、人生の可能性という大きな混乱に直面していた。こうした状況なしには、勤労主義、あるいは怠け者へと転向する人々は形成されなかった。選択肢や代案がまったくなく、人生が中世的な不可抗力のなかに置かれているとすれば、仕事の量は多かったかもしれないが、その美徳を称揚する必要はなかった。


・サミュエル・ジョンソン(1709-、イギリス、文学者):怠けることは罪ではなく、実際はすべての人間にとって真の欲求であり、つまり、すべての人間は怠け者か、怠け者志願者である。(※ジョンソン自身は、日記のなかで自分の怠惰やだらしなさを厳しく批判。)


・アメリカ(北部)では、18世紀後半から、怠惰を法によって厳しく取り締まるようになる。


・ワーズワース(1770-、イギリス、詩人):自由について語ると共に、その裏の「何もしないでいるずぼらさ」を叱責。


・メルヴィル(1819-、アメリカ、作家):怠け者が何もしないのは、もっと良い選択肢をこっそり描いているからでもなく、「働け」という資本主義的・産業的・文化的な絶対的要請に対して即座に明晰な批判を加える用意があるからでもない。単に、そこに参加したいと思わせるものが何もないだけ。


・ジェローム(1824-、フランス、画家):何もすることがないときに何もしないでいても楽しくはない。・・・怠惰は、キスと同様、奪われるものであって初めて甘く感じるものだ。


・ヴァルター・ベンヤミン(1892-、ドイツ、思想家):怠け者は、世界から隠れることで、酩酊状態、充実感を吸い込む活き活きとして浮き足立つような気持ち、経験の全体性を得る。


・19世紀末、アメリカ各州で怠け者を取り締まる「トランプ法」強化。たとえば、イリノイ州では「うろついて物乞いをする怠惰で自堕落な者、家出人、こそどろ、酔っ払い、夜間徘徊者、猥褻な者、みだらで好色な者、大声を上げる者、喧嘩早い者、職を持たない者、大酒飲みの家や評判の悪い家への訪問者、および放浪者」を違法とする。1894年のニューヨークの全逮捕者のうち40%がトランプ法違反。


・ピアソン(1857-、イギリス、生物学者):怠惰の生得説。怠惰の常習者、慢性的な放浪者は、矯正されることがない。典型的な貧者は、生まれつき骨の髄まで貧者である。


・ラッセル(1872-、イギリス、哲学者):仕事はよいものだという信念が、恐ろしく多くの害を引き起こしている。機械のおかげで、そう極端に働く必要が無くなった今日でも、過度に働く必要のあることを私たちは相変わらず主張し続けている。


・1960年代、ヒッピー。成功や名声に向かって奮闘することは、ニルヴァーナを阻み、地球環境を破壊する。人は流れに身を任せ、脱落し、自由でなくてはならない。アメリカの成功は、地球全体の環境と平和を危機に陥れる元凶。


・参加を拒否しさえすれば(資本主義)システムは破壊できるのであり、充分な数の人間が追従してくれさえすれば、「ドロップアウト」すること、大きな社会から退くだけのことによって、システムには死がもたらされる。


・ドロップアウトには、ある種の自給自足が伴う。→大地への回帰


・ウェイン・オーツ(1917-、アメリカ、作家):ワーカホリックとは働くことをやめられない人間であり、生きていくためにさらに大量の労働を要求する人間である。


・20世紀末、情報時代。「オフィスという新しいユートピア」。服装の決まりがないドットコム企業。


・怠惰と同じだけ歴史のある、福祉援助の是非。「ああいう人間たちにはまったく同情しない。彼らは・・・自分で育てられもしない子供をぽんぽん産んで、税金を払う人間の支援を永久的に当てにしている。」



○著者のまとめのようなもの

無気力な姿とは、昔と変わらず一部にはポーズであり、一部には罪の意識のあらわれであり、一部には自身の内面にある文化規範に抵抗し疲れた消耗であり、また一部には単純に、そのサブカルチャーの外側にいる人間の無理解である。
怠け者は、獲得と消費からなる世界の中で、人々が感じる、いや増すばかりの不安を代弁し、また和らげる。意味ある仕事を見つけたい、無味乾燥で単調な仕事から逃れたいという人々の欲望を、助長したり冷やかしたりする。


○僕のまとめのようなもの


まず、近代以降、どの時代でもだいたい、勤労主義(メインストリーム)×怠け者(カウンターカルチャー)という対立構造の両方が存在する。
また、この対立と同じだけの歴史を持っているのが、社会福祉に対する是非の議論。
それに必ずつきまとっているのが、怠け者は誰の責任か、という問題。


次に、怠け者の中でも、自由×怠惰と二分され、一個人の中でも同時に存在していたり長短のスパンで入れ替わる。著者の次の言葉はたぶんこのことを表現している。

怠け者の憂鬱とは、裏を返せば怠け者の喜び―チャップリンの浮浪者のように、ぼんやりしつつも、ステッキをくるくる回して口笛を吹く、あの楽しく愉快なのんきさだ。



このエントリーをはてなブックマークに追加

category: 生き方

Related Posts Plugin for WordPress, Blogger...

プロフィール

最新記事

著書

カレンダー

カテゴリ