寝太郎ブログ

2月10日文庫本発売→『自作の小屋で暮らそう: Bライフの愉しみ (ちくま文庫)』

『わら一本の革命』福岡正信  


自然農法 わら一本の革命健全な作物を作れば、人間が農薬を使わねばならないほどの病気や害虫は発生しない。耕作法や施肥の不自然から病体作物ができ、自然がバランスを取り戻すための病害虫が発生し、消毒剤が必要になる。

肥料も農薬も機械も、わざわざ人間がそれらを必要とする条件を作ってきた。余計なことをするから、さらにしなければならないことが増えて、雪だるま式に膨れ上がったのが近代農業であり、近代化の全てである。何もせんのが一番いい。
「自然」というのは、余計なことをしないこと。だから、自然農業や自然食というのは、最低の労力と費用でできるはずだ。

こうした著者の考えの真偽や成果など、営農上の細かいことは僕にはよくわからない。
しかし、「健全な作物は敵か味方か」「農業に自然本来のバランスは存在するのか否か」などの点において、先日紹介した『病気はなぜ、あるのか』とコントラストを為していて面白い。

僕の机上論では、福岡さんが、農業という営み自体がずいぶんと不自然なものである、ということを忘れているだけのように思える。「口にするものの自然さ」を言い始めたら、狩猟採集の時代に戻らなければならない。
餓死の恐怖から逃れ、食の安定を得ようとした不自然さの代償は、農薬であれなんであれ、あって然るべきで、「妥協点を見出して毒を口にしてきた」という進化的観点のほうに分があるんじゃないだろうか。

著書の半分くらいは、農業に関する思想を一般化したもので、こちらははっきりと胡散臭い。
筆に勢いがあるのは、立脚点からして問題を避けているせいだろうと思う。つまり、人間は自然の一部であるという、最も怪しげな公理を掲げ、数々の結論を導き出している。
たとえば、偉大なる自然のことなど、その一部である人間にわかろうはずもない。それを専門分化された科学者がわかったような顔で部分的にいじろうとするから、今度は別の箇所に歪みが生じて、どんどん悪いほう、面倒なほうへと転がり落ちていく。
「分かる」というのは「分ける」に過ぎないんだ。人知は分解された自然の近視的把握でしかない。それは本当に知っているということじゃないんだ。
人間の体も、反自然的になると、反自然的なところでバランスをとらなくちゃいけなくなって、科学により分解して理解された反自然的な模型としての体のための食生活になり、しまいには不健康なものをおいしいと感じるようになる。
争いも、動物のような争いに留めるべきで、戦争は不自然だ。
・・・といった具合。
そして、食と農に関して一つの回答をしたうえで、今度は「一事が万事だ」といって、普遍思想に戻す。そうすると読者は一般的な真理が得られたかのような錯覚に陥ってしまう。

僕は、人間というのは不自然で異様な存在だと思う。
死を知った人間が、より生を確実にしようと自然の一部を固定して支配しようとしたのが農業ならば、田畑に生命の輝きどころか死臭が漂っていてもおかしくはない。
それが出発点で、それを無視することはできない。

人工物に反発して、自然的な生き方、より動物に近い生き方を薦める著作ってすごく多い。それらをどうも冷めた目で見てしまうのは、自然を見すぎて人間を見ていないからだ。言葉や科学で事実を切り刻み時間を止めようとする人間の「異様さ」を、独断的に間違いであると決めつけるからだ。
生きているうちに畑やりたいなぁとは思うけど、自然の循環に身を投じて「これが生きることだ」という大いなる勘違いをしたくはない。

ただ、この提案には一票入れておきたい。
一反で、家建てて、野菜作って、米作れば、五、六人の家族が食えるんです。自然農法で日曜日のレジャーとして農作して、生活の基盤を作っておいて、そしてあとは好きなことをおやりなさい、というのが私の提案なんです。
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ストーブの熱を湯たんぽに入れて取っておくことを3年間思いつかなかった。



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