寝太郎ブログ

2月10日文庫本発売→『自作の小屋で暮らそう: Bライフの愉しみ (ちくま文庫)』

ブログのコメント欄  


ブログのコメント欄、それは自分で書いた記事に一つ一つ匿名掲示板を貼っつけているようなもの。

批判は歓迎だし、それがたとえ単なる世間の価値観の最大公約数であったり、理由も述べない結論だけであったり、あるいは愚にもつかないような自己投影だったとしても、最悪、「あなたはこういう人物なんですよ!」「あなたの目的はこうなんですよ!」という僕の何を知ってるんだろうというような解釈の押し付けであったりしても、何がしかの真実を物語っていると思う。特に、言葉を尽くした批判なんてのは、普通に生活していたら滅多にしてもらえないことである。

しかし、名前を変えて何度も連投したり、不確かな情報や嘘を並べ出したりするとすれば、これは邪悪以外の何ものでもない。
そしてそれを無条件で読まされる。どこか僕の知らないところでやっているならまだしも、邪悪な人間の書いた文章をひたすら読まされる。拒否権が無い。つまり、話しかけられ放題なのである。これは知ってる状況だぞ、と思ったら、現実世界と同じである。話しかけられるのに拒否権がないのである。

微笑みながら軽く返事をすれば、自分と同じ言論空間にいるのだと判断して付け上がる。言論空間の差異を乗り越えようとするような重い返事をすれば、「言い訳だ」「理屈だ」「必死だ」と騒ぐ。放置しておけば容認しているように見える。
今に始まったことじゃない。いつもだいたい特徴は似ている。名前はその場限り、主張は断片的、住所や専門分野といった個人情報をチラつかせてくる。

こういう人種は、話の内容なんてどうでもいいのである。
カレー鍋とか法律とかマナーとか自然環境とか以前に、人間が邪悪。
どんな政治イデオロギーも経済システムも無駄、人間が邪悪なんだから。

IPを見比べてあぁ全部同じだと識別したり、ましてやそういうくだらない奴にくだらない説教をしてくだらない恨みを買ったりした日にはもう何のために生まれてきたのかと。この記事ですらゲンナリする。そうかと思えば今度はツイッターで「前のブログみたいに叩かれますよ」などと話しかけられる。「叩かれますよ」・・・なんと気持ちの悪い言葉だろうか。

さらには、せっかく記事を書いて人が見に来てくれるのに、邪悪なコメントも一緒に発信してしまうという馬鹿らしさ。おまけにそれを見た人が雰囲気だけで「炎上」だの「盛り上がってる」だのと、馬鹿馬鹿しい。雰囲気・・・正常な思考を奪う・・・僕の大嫌いな・・・怒った顔・・・大勢の人・・・、あれ、どこかで知ってるぞ、と思ったら現実世界と同じである。

僕は、自分が正しいと思って生きている。少なくとも、常に、その場その場で最善だと思う道を選んでいる。
小川でカレーの鍋を洗っているときも、リヤカーで寝泊りしているときも、バイトでサボりサボりやってるときも、全てである。
だから、何か問題が生じたら、まず社会や常識のほうを疑う。

もちろん、僕が間違っていることもあるし、そもそも僕は「自然環境のために」と思って何か行動したことなど、これまでの人生でただの一度も無い。自分にとって都合がいいように生きている。そんなことは端から表明している。

とにかく、自分のブログの末尾に邪悪な人間が自由に出入りできて仲良く肩を組んで表現作品を作り上げるというコメントシステムの異常さにようやく気付いた。

そして全体を通して思ったことは、やはり僕はコミュニケーションが不得手であるということだ。それは現実でもネットでも変わらない。



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