寝太郎ブログ

2月10日文庫本発売→『自作の小屋で暮らそう: Bライフの愉しみ (ちくま文庫)』

高貴な人  


オーロラの見える丘だろうが、ありふれた雑木林だろうが、そこに定住して生活し出せば、どんな自然も同様に美しく感じるものだと思う。
しかし、人に関してはなかなかそうはいかないし、よほど山奥でない限り必ず人付き合いはあるものだし、それがどんなものになるかは住んでみるまで全く想定できない。

僕も、数は少ないながら、いろんな人に出会った。

ある理由で不可抗力的に関わらざるを得なくなった人物は、初対面で二言目から「お仕事は何です?」と平気で聞いてきた。明らかに他人を訝しみ、値踏みするようなニュアンスで、である。この人間がその一つの質問からどれだけ多くのことを判断しようとしているのか、背後にどれだけ「世間」を引っさげているのか、一瞬にしてわかってしまう。どういう人間か、ではなく、どういう仕事をしている人間か、で人を判断するのである。いや、むしろある程度判断して人を見てから、あえて質問するのである。

僕は昔から、そういう人間には一切の個人情報を提供しない。必ず「特に何もしてません」と言う。今は「何もしてません」というのはその通りなので、嘘でもなんでもないのだが、おそらく僕が大統領になっても、そういう人間には「何もしてません」と答えるだろう。

「何もしてません」と言うと、さらに「それで通るの?」とくる。通るもクソも、目の前の僕を見ろと。生きてるじゃないかと。それ以上のことはアンタに何の関係があるのかと。それが全く愛情も無ければ、知的関心も無い、ただ説教したいだけなのだ。

そして目の前の人間を見ずに、偏見に満ちた想像上の人物に向かってくどくどと説教を垂れる。書きたくもない、およそ信じられないようなことを言われた。こういう人間は、この世界には自分以外の人間が存在していて、自分ではない人間とコミュニケーションするということがどういうことなのか、考えたことがないのだろう。

僕はよく、「何考えてるかわからない」「現実を見ていない」「空想の世界に生きてる」とか、そんな風に言われることがあるけど、僕からしたら、そう言ってくる人間のほうが、まったく現実を見ていないし、理屈の世界に生きてると思う。あれを押さえておかなきゃいけない、それをしなきゃいけない、これをしなきゃ生きてゆけるはずがない。その「チェックポイント」でしか人間を見ることができない。そのチェックポイントにそぐわないとき、相手が若造で説教するチャンスだと感じれば、臭気のする臓物のような言葉が垂れ流される。

繰り返すように、愛情は一切無く、僕のためを思って情報提供してくれているのではないのだ。では一体なんのためになるのかと言えば、それが全然わからない。説教することによって相手より優位な立場に立っている感覚に酔っているのかもしれない。

僕は、生きているのはその人間ではなくて、説教のほうだと感じることがある。知識や思想、価値観のほうが自分を主張したがっていて、人間のほうはそれに突き動かされて説教マシンになっているだけなのだ。

価値観という言葉はもったいないかもしれない。その人間は「金」「仕事」「社会的体裁」の三語くらいで間に合う言語空間しか持っていない。札束で顔を引っぱたいてやれば腰を抜かすだろうが、そういう仕返しでは同じ言語空間に巻き込まれるだけである。

関わらないのが一番いいが、そういう人間は得てして厚顔でデリカシーが無く、否応無く他人の生活に土足で踏み入ってくる。本当にどうしようもない害悪なのだ。

その人間の言ったことを気にしているわけではないし、傷ついたりしているわけでもない。そういう人間の声が耳に入り、肢体が目に入り、吐いた空気が体内を侵食する、それが嫌なのだ。そういう人間の記憶は、腐った食べ物を摂取するよりよほど体に悪い。腐った食べ物はトイレに行けば出て行くが、記憶は容易に消せないのである。


一方、前にも書いたが、近所の奥さんには心救われる思いだった。醜悪な記憶を消すためには、美しい人の記憶で上書きするしかない。

あるとき僕が今の家屋で特に不便は無いと言うと、何も聞かずに「快適なんだー?あそこー?」と笑い飛ばした。たった一言で全てを包容し、相手を尊重し、なおかつ何の押しつけがましさもない。

「他人は他人である」という一個の人間として最も基本的なことを心得ながら、その上で何か力になれるときはいつでもどうぞと門戸を開いてくれる。ドライだが深い思い遣りに満ちている。

彼女はあるとき「たくさんのお金は欲しいとは思わないわ」と信条を聞かせてくれたことがあった。
齢はもう50だろうか、60だろうか。少女のように自由な心と、強く独立した大人としての風格。
美しいとは、そういうことである。高貴であるとは、そういうことである。

彼女には、これまた寡黙で素敵な旦那さんがいる。ご夫婦の間には、かなり遅くなってから諦めかけていたお子さんができたという話を聞いて、とても嬉しかった。ああいう人々が望んで子孫を残すことほど、この世界にとって善なることは無いだろうと思う。

大袈裟に言っているのではない。「他人は他人である」という心得は、IQで測れない人類の知能の発達を意味していると思う。説教をする人間、他人に対して何か言わないと気が済まない人間というのは、個ができあがってなくて、自分と他人との境がぼんやりとしているのだと思う。

「それで通るの?」と説教に身を躍らされているのはネアンデルタール人くらい、「快適なんだー?あそこー?」と笑い飛ばすのは新人類である。



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category: 小屋の日常
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2014/04/12 18:29 | edit



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