寝太郎ブログ

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貧乏人の楽園(J・アタリ『21世紀の歴史』を読んで)  


よく「怠け者は国を滅ぼす」と言われるが、それは国家という共同体が機能している限り、国と国とが争っている限りにおいて、他の国家との相対として「滅びる」のであって、「超個人化時代」において国家という枠組み自体を弱体化させるのは、貧乏人ではなく金持ち、怠惰ではなく欲望や上昇志向、闘争心である。

21世紀の歴史――未来の人類から見た世界今後20年の間に民主主義と市場原理が並行して世界規模で拡大し、しかし、いずれは市場が民主主義をも呑み込んでしまい、国家は無力化、アメリカさえも市場の力に屈する。市場が世界を支配する「超帝国」の誕生である。超帝国はその後15年ほどで不均衡と内部矛盾によって自己崩壊に至る。そして「超紛争」なる武力の時代が再来し、2060年頃に「超民主主義」が勝利する。以上が『21世紀の歴史』の筋書きである。

超紛争や超民主主義は置いておくとして、アタリの筋書きが当たりだとしたら、国家が無力化するくらい市場が拡大していったときに(これは事実として進行中である)、「なるべく働かない暮らし」や「あえて生活水準を上げないでのんびりする暮らし」を自由に選ぶことはできるのだろうか。

国家とは経済的に見れば再分配制度に他ならない。国家権力を凌駕し、公的サービスにまで食い入ってくるような市場の拡大は、基本的には貧乏人にとっては不利益である。
いつ誰が119番しても救急隊が駆けつけてくれる現代日本人は生まれながらにして相当守られている。これが市場の対象となり契約制となれば、金の無い人間はどこかの国のニュースにあったように医療の心得のない低品質救急隊で我慢するか、心臓発作を起こしたら大人しく観念するかである。

ほとんどの人間が質素な生活をしていた昭和初期以前を思えば、市場は未発達で、そもそも再分配されるだけの富がどこか遠くから流入してくることは無かった。しかし再分配は頭打ちであって、今後も国がバイクを直してくれることはなさそうである(→「バイクの修理費で一月分の生活費が飛んでった」)。それどころか、アタリの筋書きがその通りに進むのならば、市場が拡大していく近未来の再分配は今よりも期待できない。

再分配が極大に達している現代は、自主的な貧乏人にとっては歴史上唯一にして最大の楽園なのかもしれない。インフラの整備と最低限の生活保障をこれほど安定的に国家が担ってくれるような時代は、もう当分来ないのかもしれない。

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アタリいわく、「いかなる時代であろうとも、人類は他のすべての価値観を差し置いて、個人の自由に最大限の価値を見出してきた」。それは超個人化時代の極限である「超帝国」において頂点に達すると言う。たとえば、現在多くの人を守っているであろう「一夫一婦制」という法律も、法律が契約に代わる「個人の自由の頂点」においては崩れ去る。

しかし、ある意味では、個人の自由すらも現代において頂点にある。これ以上市場が拡大したら、そもそも自主的に貧乏生活を選ぶという選択肢は狭まってしまう。自由を欲望の追求と同一視している節があるアタリも、少しわかりにくい表現だが以下のように書いている。

自己監視体制により(少なくとも外見上)絶えず個人の自由が増大していくことで、人々は職業上の領域であろうとプライベートの領域であろうと、ますます自分個人の領域だけにしか責任がないと考えるようになる。こうした態度は、表面的には自分自身のわがままの発露であるが、実際には自分自身の生き残りを賭けた規範に従った結果なのである。

つまり、マネー戦争に勝利するように振舞う個人の自由は増大するが、マネー戦争に参加しないことを選ぶ自由は減少するのである。

今は欲望を追求する自由も、それこそ空を眺めて暮らす自由も、バランスの取れた「選択の自由」として確保されている。
そのバランスは何に由来しているかと言えば、そもそも相反する性格を持つ市場原理と民主主義との絶妙なバランス、ということになる。



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category: 社会・経済

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