寝太郎ブログ

2月10日文庫本発売→『自作の小屋で暮らそう: Bライフの愉しみ (ちくま文庫)』

『遊歩大全』C・フレッチャー  


遊歩大全 (ヤマケイ文庫)ただ単に歩くという行為が頭の中を秩序化し、心の奥に既に潜在しているであろう答えを引き出してくれる。

和訳にしてわずか15ページの序章「なぜ歩くのか?」に、本編約1000ページ分の実践と知識に裏付けられた「歩く」ことへの思いが込められている。

全文引用したいくらいだが、僕が一番心を鷲掴みにされたのは次の箇所。

そうしたシンプルな世界(ここではwilderness、大自然、ありのままの自然のこと)から複雑な下界、すなわち壁に囲まれた人間社会なるところへ舞い戻ってくると、・・・しばらくの間、この複雑さの背後にある意義を探り出そうと熱心に思考する。・・・そして自然と自分との完全なる調和の中で時を過ごし、やがて再び意義を求めて都会へ戻るというパターンが展開され、確立される。このバランスがすばらしいものだと思うからこそ、私はウォーキングを人にも勧めるのだ。(p.37-38)

ただ、このバランスを得るためには、「真の障壁」にぶつかり、乗り越える必要がある。その障壁とは、食事や睡眠の懸念や野生動物に対する恐怖ではなく、「人間の足跡がそれより先へはまだ印されていないという境界線ぎりぎりまで自分が来ている」という感覚にあるという。

これは人類未踏という文字通りの意味ではなく、あまり詳しくは書かれていないが、つまり「このまま生の自然と同化していったら、戻れなくなってしまうのではないか、狂ってしまうのではないか」という感覚だろう。僕らの思考や知覚は、現実を解釈することでいろんなものを「見ない」ようにしてうまく成り立っている側面があるが、ありのままの世界を見てしまったら、世界そのものが解釈なしでドカンと自分の中に入ってくるようになってしまったら、これまで通りのごく当たり前の思考や知覚ができなくなってしまうのではないか?果ては社会生活、人間としての生活に支障が出るのでは?という恐怖。

「ありのままの世界」に対する恐怖は、なにも大自然の中にのみ隠されているわけではなくて、その深淵は日常の中にごく普通に存在し、僕らはみんな狂気と紙一重で生きている。ただその入り口として誰にでも大きく開かれているのが、ウォーキングであり「ありのままの自然」である。そんな意味なんじゃないだろうか。

この感覚があるからこそ、著者は「長旅の後で、狂気と健全さが同義語だということがわかる」と言っているのだし、「ウォーキングなんて現実逃避じゃないか」という批判に対して、「現実とは何か、リアルとは何か、勝手に決めるんじゃねーよ」と反論しているのだと思う(そんな言い方はしてないが)。

本編のほうは、全文を読む本ではないかもしれない。何しろ長いのだ。しかし、パラパラとページを繰ればニヤリとするようなことがたくさん書かれている。
たとえば、「水平なテントサイトを探すためには、あらん限りの努力を惜しんではならない」。目で見てもわからないような極めて微妙な傾斜が睡眠の質を極端に下げる。それは著者が言うように、自分で寝転がってみないとわからない傾斜なのだ。
ちなみに本編も単なるノウハウ集ではない。時間さえあれば全文読んでも退屈はしないだろう。

僕自身は、本格的に長く歩いたことはない。友人と一緒にテントを担いで一週間の徒歩旅行をしたのと、エヴェレストのベースキャンプまで似非トレッキングをしたくらいである。
でもいつかやりたいことの一つではある。ずっと憧れがあった。別に深山幽谷でなくてもいい。里山でも下界でもいいから、そこに何か最終的な答えを求めるのではなくて、一つの極を味わうために、とにかくぶっ続けで歩いてみたい。



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