寝太郎ブログ

2月10日文庫本発売→『自作の小屋で暮らそう: Bライフの愉しみ (ちくま文庫)』

「家族のため」という免罪符  


ここ一、二年で読んだ本の中で何度も目に付いたのだが、主として最後のほうに「私は自分の家族の笑顔のために(あるいはそれを原動力として)やっているのだ」というような趣旨の文言が、本文とは関係なく唐突に出てくることがある。謝辞に出てくるのならわかるが、本文中に出てくる。僕には「知らんがな」としか思えないのだが、あれは一体何なんだろう?

僕だって、他人の子供をかわいいと思うことが全く無いわけではない。でもそれは、特定の他人と出会いや交流があって、記憶や歴史を共有して、初めて「その人の子供として」かわいいと思うのだ。だから、誰が読むかわからないはずの本に「家族のため」という文言が出てきて、それでまるっと収められると、知らない人間から年賀状でその人の家族の近況を知らされてるような、不思議な気持ちになる。そんなこと知りたくもないのだが。

おそらくは、「自分の伴侶が愛おしい」「自分の子供がかわいい」というほぼ九割方の人間に共通している感情に訴えかけているのだと思う。共感というやつである。もちろん、どんな本だってどこかで非合理性に訴えかけて、いわば読者が理屈抜きで、全身で、直観で、感情で納得するようなところに落とし込む必要がある。僕は、数学や論理学の本だってそうだと思っている。その度合いによって、数学書になったり、宗教書になったり、一般書になったり、専門書になったりする。

しかし、その非合理性を全く脈絡も無く濫用されると、本論の説得力も落ちるし、その「家族のために」という思いにすら疑念が生じる。極端に言えば、その人にとって「家族」というものは、何かの話をラッピングしたり、その議論の至らなさの免罪符とする程度の存在なのだろうか?

あるいは、そういう本は不特定多数に向けて書いているのではなく、自分を既に知っている人に向けて(つまり甘えて)書いているのだろうか。自分が不特定多数の中の一人、七十億分の一であると自覚するのが恐いから、あえて自分の主観を持ち出すことで自分自身を欺き、盛り上げているのだろうか。

はたまた、単純に、「家族のため」と言えば何でも美談になってしまうような道徳に阿ているのだろうか。私は社会的にまともな人間ですよという主張なのだろうか。そしてそれで以って本全体をぼんやりと正当化しようとしているのだろうか。

自分語りならいい。しかし、自分の家族語り???とにかく謎である。



このエントリーをはてなブックマークに追加

category: ■未分類

Related Posts Plugin for WordPress, Blogger...

プロフィール

最新記事

著書

カレンダー

カテゴリ