寝太郎ブログ

2月10日文庫本発売→『自作の小屋で暮らそう: Bライフの愉しみ (ちくま文庫)』

『自己への物語論的接近』浅野智彦  


自己への物語論的接近―家族療法から社会学へ「自分が何者であるか」と考えるとき、いったい僕らは何をやっているのか。この本は、いわば「自分について考えることを考える」というメタ自己分析の本である。

主張は明快で、著者いわく、「私」は自己物語を通してのみ産み出される。その人の持つ無数の行為、体験、エピソードを、一定のストーリーにしたがって選択し、配列し、構造化することで、つまり物語化することで、初めて「私」が現れてくる。その選択や配列の基準は、物語の結末、つまり、今ここにある自分によって与えられる。

もう一つの主張は、自己物語は「語り得ないもの」を前提とし、かつそれを隠蔽しているということ。語られた自己物語の信憑性や、決定的な意味を持つのに語ることができないエピソード、いわゆるトラウマは、自己物語を一貫したものにするためには隠蔽しなければならない。

本書の全体を通じて、この二つの主張が詳細に論じられる。両方とも直感的にわかりやすいし、また議論も丁寧で読みやすい。

一応、不満な点を述べるならば、前者に関しては、非常に強い意味で「私とは即ち自己物語のことである」と言っているようなのだが、どうして自己物語なのか、という点は全く述べられていない。あくまで、「物語論の立場からのアプローチ」である。哲学から心理学まで、自己同一性の根拠として主張されているものは数多あるが、それらと比較されているわけではなく、存在論的なレベルでの議論があるわけでもない(そもそもそういう本ではない)。

また、後者に関しては、語りえないことを隠蔽しているというケースが多々あるというだけでなく、必ずそうだとする論拠が不明だった。

最も興味深かったのが、離人症患者の分析である。離人症の患者は、物語に関わる能力と自分というまとまりとが一緒に失われてしまうという。

ある離人症患者は、治そうと思えば自分ひとりで治すことができるが、そんなことをするくらいなら死んだほうがマシだと言う。どういうことか。

ある社会において自己物語として受け入れられやすいものとそうでないものがある。受け入れられやすい物語はやがて定型化し、多くの人々に利用されるようになる。あるいは商品化される。定型物語は労せず語り得ぬものを隠蔽することができる。しかし「私」の経験の独自性やかけがえのなさは切り詰められる。

離人症患者が他者との関係に入ることに感じる恐ろしさというのは、このような定型的物語に呑み込まれ、結局は「私」が失われてしまうことを予感してのことであろう、と著者は述べている。

思うに、これは病気でも何でもない。内的経験の固有性や、個人から立ち上がってくる物語の固有性を認めないばかりか、つまらない解釈を押し付けてきたり、外的要因に基づく説明しか聞き入れようとしない、定型的な物語に染まりきってその翻訳語を通してしか語ろうとしない人間の集合体としての社会によって蹂躙された被害者である。



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category: 書評その他
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コメント


Re: タイトルなし

> 哲学ってなんだかめんどくさいね。
>
> まっ、生きて行くってコトが一番面倒なことなんだけどね。

記事の本は哲学とはあまり関係ありません

毎年寝太郎 #098mQ.iE | URL
2013/12/26 15:37 | edit



哲学ってなんだかめんどくさいね。

まっ、生きて行くってコトが一番面倒なことなんだけどね。

quiet #- | URL
2013/12/26 15:29 | edit



隠蔽される「語りえないもの」ってどんなだろう、と興味がわきました。
「影」とかと関係あるのだろうか・・・?

ashibi #aH54ur02 | URL
2013/12/25 12:00 | edit



Re: タイトルなし

> 僕も、「定型的な物語」の圧力にイラついて、コミュニケーションを遮断しがちなんですが、最近だんだんと自己の「固有性」への自信も無くなってきてて、全てに無気力になりつつあります。
> この無気力こそが僕の固有性なんだろうと納得しつつ、悲しい。

記事に書いた定型と固有性との対立は一番表面的なものだと思う。
確かに難しいのはここからで、これが自分の固有性だと思って満足してしまう人もいれば、固有性だと思っていたものを掘り下げすぎて何も出てこない場合もある。適度に掘り下げて悦に入る人が現実的な成功をつかみやすいと思う。

毎年寝太郎 #098mQ.iE | URL
2013/12/25 07:56 | edit



僕も、「定型的な物語」の圧力にイラついて、コミュニケーションを遮断しがちなんですが、最近だんだんと自己の「固有性」への自信も無くなってきてて、全てに無気力になりつつあります。
この無気力こそが僕の固有性なんだろうと納得しつつ、悲しい。

a #- | URL
2013/12/25 07:24 | edit



出来事は自分なりに解釈しないと生きていけないし、いちばんヤバいことは話せないってことでしょうか。ここで話せないっていうのは、言語として表現できないのか、それとも秘密なのか、どっちなんでしょうね。深層意識で(そんなものがあると仮定して)言葉として表現すること自体が危険と判断しているなら、どっちでも同じなんですかね。

寝太郎さんのコメントについて。自分の子供は本当に可愛いし、お金は大事だし、健康も失いたくないので、どれも僕にとっては大事な価値です。定形化しないように、自分の頭で考え続けることと、自分が考えたことをむやみに人に押し付けないようにしたいですね。

モスクワ駐在 #- | URL
2013/12/25 02:41 | edit



なるほど。

まあ難しいことはさっぱりわからないのだけど、
ふとジョンレノンのマインドゲームスという曲を思い出しました。

maki #- | URL
2013/12/25 01:33 | edit



Re: タイトルなし

> えーとつまり世間で流布している定型的な自己物語は寝太郎さんがしばしば言及する
> 「いろんな事を知っている事が当たり前の前提であるかのように迫ってくる何か(うろ覚えですみません)」
> みたいな感じって事でしょうか?

家族愛とか、お金とか、健康とか、エコロジーとかは、定型的な物語になりやすいですね。

毎年寝太郎 #098mQ.iE | URL
2013/12/24 20:25 | edit



えーとつまり世間で流布している定型的な自己物語は寝太郎さんがしばしば言及する
「いろんな事を知っている事が当たり前の前提であるかのように迫ってくる何か(うろ覚えですみません)」
みたいな感じって事でしょうか?

千葉県民 #- | URL
2013/12/24 19:59 | edit



定型的な物語に取り込まれることなく、自己の固有性が立ち現れたとしても、その固有性すらも否定し去るのが仏陀の教え

一文字隼人 #- | URL
2013/12/24 19:58 | edit



過去物語は現在から創られる

 大森荘蔵・池田晶子を読み、聞くのはユーチューブの愚さんの時間は無いで過ごすおらには楽しそうな本です。ラマナマハリシの「自己(自我)は自分で束縛(夢や希望)で縛り、そこを乗り越えようとしている」。自我を捨てることができたら(自分の無いことが判ったら)束縛から解放されるらしいです。お金・時間など無いことはおらにも解かりますから、なにがなんだかわからないが本当のところらしいです。が、・・・おらは理解できないでいます。アタリはあまりに大作なので借りてきただけで読まずに終わりました。
 理屈から自分が無いとはっきり理解できると嬉しいのです。浅野さん読んでみます。面白そうです。
                                敬具

勘太郎 #- | URL
2013/12/24 19:58 | edit



もう何言ってるのかさっぱりさっぱり

まめお #- | URL
2013/12/24 17:59 | edit



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