寝太郎ブログ

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『自己への物語論的接近』浅野智彦  


自己への物語論的接近―家族療法から社会学へ「自分が何者であるか」と考えるとき、いったい僕らは何をやっているのか。この本は、いわば「自分について考えることを考える」というメタ自己分析の本である。

主張は明快で、著者いわく、「私」は自己物語を通してのみ産み出される。その人の持つ無数の行為、体験、エピソードを、一定のストーリーにしたがって選択し、配列し、構造化することで、つまり物語化することで、初めて「私」が現れてくる。その選択や配列の基準は、物語の結末、つまり、今ここにある自分によって与えられる。

もう一つの主張は、自己物語は「語り得ないもの」を前提とし、かつそれを隠蔽しているということ。語られた自己物語の信憑性や、決定的な意味を持つのに語ることができないエピソード、いわゆるトラウマは、自己物語を一貫したものにするためには隠蔽しなければならない。

本書の全体を通じて、この二つの主張が詳細に論じられる。両方とも直感的にわかりやすいし、また議論も丁寧で読みやすい。

一応、不満な点を述べるならば、前者に関しては、非常に強い意味で「私とは即ち自己物語のことである」と言っているようなのだが、どうして自己物語なのか、という点は全く述べられていない。あくまで、「物語論の立場からのアプローチ」である。哲学から心理学まで、自己同一性の根拠として主張されているものは数多あるが、それらと比較されているわけではなく、存在論的なレベルでの議論があるわけでもない(そもそもそういう本ではない)。

また、後者に関しては、語りえないことを隠蔽しているというケースが多々あるというだけでなく、必ずそうだとする論拠が不明だった。

最も興味深かったのが、離人症患者の分析である。離人症の患者は、物語に関わる能力と自分というまとまりとが一緒に失われてしまうという。

ある離人症患者は、治そうと思えば自分ひとりで治すことができるが、そんなことをするくらいなら死んだほうがマシだと言う。どういうことか。

ある社会において自己物語として受け入れられやすいものとそうでないものがある。受け入れられやすい物語はやがて定型化し、多くの人々に利用されるようになる。あるいは商品化される。定型物語は労せず語り得ぬものを隠蔽することができる。しかし「私」の経験の独自性やかけがえのなさは切り詰められる。

離人症患者が他者との関係に入ることに感じる恐ろしさというのは、このような定型的物語に呑み込まれ、結局は「私」が失われてしまうことを予感してのことであろう、と著者は述べている。

思うに、これは病気でも何でもない。内的経験の固有性や、個人から立ち上がってくる物語の固有性を認めないばかりか、つまらない解釈を押し付けてきたり、外的要因に基づく説明しか聞き入れようとしない、定型的な物語に染まりきってその翻訳語を通してしか語ろうとしない人間の集合体としての社会によって蹂躙された被害者である。



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category: 書評その他

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