寝太郎ブログ

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『自立社会への道-収奪の五〇〇年を超えて』筧次郎 (前半)  


自立社会への道―収奪の五〇〇年を超えて
この本は、「工業社会の繁栄・豊かさは、科学技術文明の発展の結果である」という考え方を、近代の歴史を被支配者の側から再解釈することで覆そうとする。いわく、

近代とは、西洋の白人たちが世界を侵略して、富と労働を収奪し、繁栄している時代である。(p.7)

工業社会の豊かさはひとえにこの「収奪」ゆえであり、非工業国の貧しさも文化・文明の発展の遅れではなくひとえにこの「収奪」ゆえである、という論旨である。

第一章では、その「収奪」がいかに為されたかという観点から、「近代」が「直接的な収奪の時代」「強制的な収奪の時代」「構造的な収奪の時代」に区分される。

「直接的な収奪の時代」は、武力によって金品を強奪し、土地を奪い、奴隷を酷使した時代である。産業革命はこの膨大な富の流入なしには起こり得なかった。

「強制的な収奪の時代」は、不公平な商取引を強制する、いわゆる植民地の時代である。武力の代わりに工業製品が収奪のための武器となった。

「構造的な収奪の時代」は、非工業国の政治的な独立を認めつつ、世界経済の仕組みによって収奪を巧妙に隠蔽しながら、依然として資源や労働を奪い続ける時代である。

また、こうした一連の再解釈の過程で「生産」の意味が問い直される。現代工業社会の「農業の生産性」が表面的に高いのは、工業によって収奪した富を農業にまわすことでのみ可能になる。それは地球規模の全体的な収支を見れば極めて低い生産性であり、エネルギーの無駄遣いでしかない。

機械は富を生み出すのではなく、富を集める、つまり収奪することしかできない。農機とて例外ではない。これがいくら機械が普及しても全体が豊かになることはない理由である。

第二章から第四章までは、この再解釈された「近代」の各区分の詳細である。アメリカ、インド、フィリピン、あるいはアフリカの各国における「収奪」の歴史が語られる。

欧米の植民地主義による世界侵略、すなわち「強制的な収奪」は、中南米、アジア、アフリカに至るまでほぼ完了し、最後に残ったのが中国、朝鮮、日本である。

本書後半では、こうしたグローバルな歴史観を元に、日本の近代の再解釈に進む。このような歴史解釈の元では、確かに、日露戦争における「非白人の勝利」が世界を驚かせたことは想像に難くない。しかし、現代が近代の延長線上にあるとすれば、現代日本における平凡な人々の一挙手一投足が「収奪の構造」において何を意味するかもまた明確である。

私たちはみな時代の子であって、時代を超えた普遍的な真実に到達するのは難しい。私たちはとりわけ自分の経済的な立場を正当化する視座を、無意識に選んでしまう。(p.121)

本文内に散見されるこうした理知的で相対主義的な態度も筆者の特徴であり、これは、感覚的で独断的な物言いをする(それはそれで味のある)福岡正信の『わら一本の革命』とは本の趣を異にするところである。

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この川縁も一応、僕の土地。風がないと今の季節でも暖かい。



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category: 社会・経済

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