寝太郎ブログ

2月10日文庫本発売→『自作の小屋で暮らそう: Bライフの愉しみ (ちくま文庫)』

行動原理  


誰か特定の人間に対して、直接的な依存感情を感じないようにすること、その人間の評価を必要としないこと。気にしているのはそれである。それ以外のこと、生活水準や、環境汚染や、自分の将来のことや、あるいは収奪に加担して貧しい国の人をどれだけ苦しめているかなどは、二の次、三の次である。むしろこれらの観点は、ときとして自分の行動の足枷となり、窮屈に感じさえもする。

たとえば、永続的な人間関係が発生するので畑を借りるのは嫌だが、非効率的でも自分の所有する山の開墾ならやってみたい。本やインターネットから情報を得ることは比較的問題ないが、生身の人間が直接もたらしてくれる情報は苦手である。文明の利器に頼ることも気にしないが、ライフラインを繋ぐのは微妙、電気店にやってもらうのはNG。個人商店よりも大型デパートやネット通販が良い。自分のテントサイトを誰かに使ってもらうのは構わないが、僕は赤の他人でありたい。社会保障に頼ることにもそこまで抵抗はない。僕個人が依存・被依存感情を感じなければそれでいい。

この線の引き方が人とかなり違うと感じているので、経済的な独立こそが独立だと主張する人をあまり信用していない。会社勤めなどは以ての外である(やったことないが)。

治験はこの原理にぴったり合っている。事前検診で見ていた限り、参加した17人の全員が互いに誰とも一言も口をきかないというとても「良い」雰囲気である。相部屋にも抵抗感はない。それは互いが無関心で、心が切れているからである。
黙々と作業する倉庫バイトも比較的良い環境だったが、一瞬で飽きる。ウェイターのような仕事は仲間との協調性が重要だし、客に対して媚びへつらうようなサービスも必要だからやりたくない。

芸術の類はどうしても受け付けない。僕自身が他人の描いた絵を欲しいと思わないからだ。
たとえば、陶芸でもやったらどうか、なんてアドバイスをくれる人がいるが、いまどき手作りの湯のみなんて買うだろうか?本当に手作りで100均の湯のみよりクオリティの高いものができるだろうか?その手のものを買ってくれる人がいるとしたら、それは作り手の物語を買ってくれるのである。「この人の作ったものだから」というわけで買ってくれるのである。現実世界での交流があれば、その「繋がり」はとても強いものとなる。そんな心の繋がりは要らない。

ブログを通じて得るお金は、そういう意味ではかなり自由な収入である。アドセンスを始めとするかなり匿名的な広告契約のおかげで、よほど反社会的なことを書かない限り何を書いてもいい。広告掲載主の顔も知らない。少なくとも特定の人間の評価を気にする必要はない。
しかし、純粋な知識や情報を提供しているのでない限り、表現行為というのはどうしても「見てもらっている」「読んでもらっている」というところに帰着してしまうのであり、依存の延長にあるものだと思う。

こうした立場は、(反社会的というより)非社会的であることはいうまでもなく、相互扶助や絆を重んじるいわゆるオルタナティヴライフスタイルの諸潮流からも逸脱している。

全く相反することを言うようだが、お金というのは、どんな手段であれ(良心に従って)自由に稼いで、回ってゆけばいいと思う。しかし、自分ひとりの生活を回してゆくための最も基本的な部分に、依存に基づいたお金が侵入してくると、突然、何もかもが窮屈になる。

僕がBライフだなんだと言ってるのは、その最低限の費用を極めて小さく、2万円という現実的な額にすることで、その依存も同様に小さくすることこそが肝なのであって、節約生活そのものに意義があるわけではない。ちなみに、まじめに「生活」をしようとすればわかるとおり、依存「ゼロ」というのは机上の空論であり、ありえないことである。

それ以上のお金というのは、自由に稼げばいい。それは、贅沢費であり、互いが贅沢(資源の浪費というような意味ではなく、本来必要ないという意味)をすることによって回っているお金である。歌でも歌ってお金をもらい、それでおいしいデザートでも食えばいいのである。(不健全なのは、そのお金がたとえば農家の作った野菜や第三世界の労働によって回るお金と一緒くたになってしまうことである。)

今のところ治験は受けるつもりでいる。それが終わったら健康的な生活をしよう。それで、お金を使い切るまでに何か収入を考える。これが来年の抱負。

偽薬に当たりますように!

それでは、良いお年を。



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category: ライフスタイル

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