寝太郎ブログ

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自分の人生には物語がない  


僕は、社会問題には興味がない。それどころか、警戒心すら抱くこともある。

主たる理由は、そこに既に大きな物語が流れているからだ。しかも、社会一般に対して堂々と示せる、理解を得られやすい、大義名分付きの物語である。その流れに自らの人生の流れを重ね合わせることによって、実に容易に、単なる個人としての生活を超えた「生きる意味」が得られてしまう。

そこに物語があると、「あ、嘘だな」と感じる。もちろん、社会問題に携わっている個々の人にとっては嘘でも何でもない。別に批判しているわけではない。しかし、僕にとっては嘘なのだ。目を背けたくなる。自分が何かの物語に乗っていると気付くと、すぐにレールを飛び降りたくなる。

自分の人生には物語がない。もう少し正確に言えば、数々の物語の背後に、「自分の人生」という大きな物語が絶対的なものとして控えていない。それがベースだから、あらゆる物語がふわふわと浮いて見える。どんな物語も落としどころがなく、嘘だと感じる。

もちろん、自分にも断片的なエピソードはたくさんある。少ないながら友人もいたし、断続的に恋人もいたし、学問を志したこともあったし、金が欲しいと思ったこともあった。しかし、「自分の人生」という大きな流れがない。一番肝心なものがないのだ。具体的な何かの喪失ではなく、人生全体の喪失。いつでもない、どこでもない、誰でもない、ひどく匿名的な存在。

人が恋に落ちるのも、金を稼ぎたがるのも、社会問題に携わりたがるのも、単に他人と一緒に居たがるのも、物語中毒である部分が大きいのではないだろうか。人が仕事を失って辛いのも、仕事と共に物語が失われてしまうからだろう。僕も、パーッと何億も稼ぎたいと思ったことはある。金自体が欲しいわけではなく、金が紡ぎ出す物語によって、少しは人生に彩を、と思ったのだ。

自分に物語がないから、物語を押し付けられることがとても煩わしい。どんな物語を当てはめてみても、全部間違いだと感じる。

「どうして」と尋ねられることも煩わしい。「どうして」という質問には必ず、何らかの目的に向かう文脈、つまり物語の存在が前提とされているからだ。

「自分の人生には物語がない」というのは変な言い方かもしれない。物語と人生とがほとんど同義語であるとすれば、そもそも自分には人生がないのだ。




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category: 彼岸

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