寝太郎ブログ

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何のためにシンプルに生活するのか  


本当はもっと、シンプルに生きたい。自転車、テント、寝袋、スマホ。自分の所有物がそれだけだったら、もっともっと生活から逃れられたら、どんなに気持ちが安らぐだろうかと思う。

シンプリシティを渇望するのは、自分自身の頭が全くシンプルではないからだ。あまり人と関わりたくないと思うのも、シンプルな人の頭についてゆけないからだ。そして、他人は他人で、自分は自分で、正常だと思っている。

シンプルになるのは簡単である。何かひとつ強い目的があれば、世の中は秩序化されて途端にシンプルになる。しかし、「生きる」ということが背後に控えていない限り、「自分が、家族が、親しい人が、人類が、生きてゆけさえすればいい」と思えない限り、「生」が人格の全体性を支えてくれない限り、そんな目的などありえず、生きている限り必ずどこかで矛盾が生ずる。

その矛盾は原理的なものだ。人間は自分が死ぬことを知っていて、ゆえに単に自分が生きているだけでなく、自分が生きていることを知っている。自分が物語の内に在ることを外から観察することができる死の人格、非物語的な人格が、生きようとする人格と共にひとつ身体の内に存在する。

僕は、生と死を統一的に把握できるような視座を知らない。論理は死の人格に支配されているし、愛は生のうちにのみ存在する。だから、矛盾していて、分裂していて、複雑で、そしてそれが正常なのだ。

小屋暮らしとその思索を綴ったソローの『森の生活』には嫌いな箇所がたくさんあるが、その筆頭が次である。

生活をシンプルにすると共に、宇宙の法則もシンプルになる

どうしてこういう嘘を言うのだろうか。所詮、『森の生活』は物語の内部から超え出ることができない文学作品で、良い啓発書に過ぎないということではないだろうか。

シンプルな生活は、宇宙の法則もシンプルだと勘違いして生きてゆくためではなく、複雑でどうしようもなく矛盾している宇宙の法則と人間存在について、誤魔化さずにきちんと対峙するためにある。僕はそう思う。どれだけ死の人格に支配されたときでも、わずかな生によって最低限の生活がきちんと回ってゆくように、そのためのシンプルなのだ。




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category: 彼岸

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