寝太郎ブログ

2月10日文庫本発売→『自作の小屋で暮らそう: Bライフの愉しみ (ちくま文庫)』

人に頼るということ  


「人に頼る」ということには二種類の意味があり、それぞれ生の人格と死の人格とに根差している。僕は、前者の意味で人に頼ることには抵抗はないが、後者の意味で人に頼ることには抵抗がある。

生の人格というのは、自由で、動的で、感情的、冒険的、情熱的、物語的で、視点依存的で、外に広がっていくものである。
死の人格というのは、自己完結的で、静的で、理性的、論理的、計算的、記号的、意図的、俯瞰的で、内に閉じ篭っていくものである。

こんなに簡単に線を引けるのか、という疑念は当然つきまとう。僕の卒論のテーマは一言で言うと、論理推論や因果推論が完全に死の人格の領域に属しているのかどうか、というものだった。ただ、ここでは上の二元論は前提としたい。

lifeanddeath.jpg

生の人格が支配的な時と、死の人格が支配的な時と、くるくると入れ替わる。これがなぜかと問われても、答えようがない。幼い頃からそうだった。

大学進学以降、現在に至るまで、生よりも死の観念のほうがより強く自分を支配してきた。死の人格が支配的になると、人生上の間違い(自分では間違いだと思っていない)が多く生ずる。たとえば、人に頼るということ。

人にお金や物をもらうのは、僕はあまり抵抗を感じない。端的に「生きる上で」人を頼るに過ぎないからだ。薪を分けてもらったりとか、何か作るときに、ここの部分が足りないから、これこれこういう物が欲しい、といった形で指定した上で資材なんかを分けてもらうのには抵抗はない。あるいは、単にパワーや人手が足りないので手を貸してもらうとか、イザというときに助けを求めるとかも、そんなに抵抗はない。

もちろん、通常、お金や物をもらうにはいろいろな代償が付き纏うものである。抵抗を感じるとすれば、それはその代償に対してであって、お金や物をもらうこと自体に対してではない。

一方で、たとえば電線を引き込んで電気を使えるようにしてもらうとか、バイクを一日預けて諸々直してもらうとか、あるいは本や論文から結論だけを引いてくるなどといったことは、そこのところが丸々ブラックボックスになってしまうので、不安と羞恥心を感じる。

不安は、自己同一性に瑕がつくことによって生じる。というのも、死の人格にとって自己同一性というのは、静的な論理、理性、言葉、記号などによって支えられているため、ブラックボックスになるということは、そのままその部分が他人になってしまうということだからである。

羞恥心のほうは、生きてゆくために結局はそのブラックボックスを受け入れてしまうこと、つまりそれが「生の人格」という別の人格の存在を示唆していることによって生ずる。

ところが、世間ではたぶん、これが全く逆なのだ。生きる上で頼ることを恥ずかしいと感じ、知識や情報の上で頼ることを何とも思わない。「自立」という言葉がしばしば「経済的自立」と同一視されているのも、お金を使って、ブラックボックスをたくさん開けて、分業社会の中で生きてゆけるようになることが「自立」であると思われているからだろう。

このズレは、元を辿れば、自分の死の人格が肥大しすぎていることによると思う。




このエントリーをはてなブックマークに追加

category: 彼岸
cm: --

Related Posts Plugin for WordPress, Blogger...

プロフィール

最新記事

最新コメント

著書

カレンダー

カテゴリ