寝太郎ブログ

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死の存在から生き方は導かれない  


図書館で『死について!』という本を見かけて手に取ってみたことがある。いろいろな職業の人が「死について」語っているのだが、これがとてもつまらない。

どうつまらないかというと、「死について」ではなく「死というイベントが紡ぎ出すドラマについて」つまり「生について」しか語っていないのだ。63人の語り手の全て、例外なく、である。これがもしかしたら世の中の感じ方・考え方の縮図なのかもしれないと思った。

よく、「いつか死ぬのだから、短い生をがむしゃらに生きよう」だとか、「どうせ死ぬのだから、死ぬまでの時間を適当にやり過ごせばいい」だとか、死を根拠に様々な生き方が主張される。この結論の多様さが物語っているとおり、全部こじつけである。

死を根拠にエネルギッシュに生きたい人は、最初からエネルギッシュに生きたいのであり、死を根拠に無為に生きたい人は、最初から無為に生きたいのであり、その本人の性質を、「死」という変幻自在のジョーカーカードによって映し出しているだけのように思う。

死の存在から生き方は導かれない。にもかかわらず、とかく人は、死というものを生の内部に回収しようとしがちである。

僕が以前から、中沢新一やマルセル・モースらの「贈与論」、およびそれと切り離せない「エロス(生)とタナトス(死)の二元論」に対して抱いていた違和感、というか、コレジャナイ感の理由もここにある。

中沢いわく、「死への恐れ」が「不滅への深き欲望」へと変わり、それが計算的な人格を形成し、文明の原動力となった一方で、「贈与の風」を止め、霊的な交わりを殺してしまったのだという。これは実感としてもとてもわかりやすい。恐怖心が生まれると、物事を計画的に確実に進めたくなるものである。

しかし、これはあくまで「死への恐れ」の中で人がいかに生きようとするか、という話であって、どこまでも生の内部の話である。

本来の、死そのものの観念がもたらす人格というのは、もっと虚無的であり、恐怖に突き動かされた計画性というよりは端的に俯瞰的・メタ的であり、そしてずっと穏やかなものであると思う。

生の終わりとしての死の恐怖がもたらす、生の内部での小さな人格の分裂と、死の観念そのものがもたらす、生と死の大きな人格の分裂とは、区別されて然るべきである。

というのも、中沢の二元論は、(生の終わりとしての)死の存在から生き方を示唆するものだが、生きようとする意志やパースペクティヴを消去する死そのものの観念からは、容易に生き方は導かれないからだ。




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category: 彼岸
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