寝太郎ブログ

2月10日文庫本発売→『自作の小屋で暮らそう: Bライフの愉しみ (ちくま文庫)』

一閃  


アマゾン・アソシエイトをやったことがない人はわからないと思うが、アマゾンの商品を紹介したりしたとき、自分のリンク経由でどんな商品がいくつ売れたかを見ることができて、これがけっこう面白い。

ついこの前なんかは、『死について!』という本を「とてもつまらない」と紹介していたら、なぜかその原著(英語)を買った人がいた。ちょっと複雑な気持ちである。もちろん、誰が買ったかは僕にはわからない。

今日は『スマートサイジング』が結構売れてるみたいで嬉しい。やっぱり自分が紹介した本が売れると嬉しいもので。

『スマートサイジング』の目次を眺めると、「幸せ」という言葉が並ぶ。

プロローグ 「ふつう」を見直そう
パート1 モノと幸せの矛盾した関係
第1章 モノを買っても幸せにはなれない
第2章 「人がモノを」ではなく「モノが人を」支配している
パート2 シンプルライフで幸せになる
第3章 モノとの付き合い方を変える
第4章 借金の底力
第5章 売れるモノは売り、残りは寄付する
第6章 小さな家の喜び
第7章 仕事を見つめ直す
パート3 幸せを買う
第8章 時間こそ本当の豊かさ
第9章 お金VS経験
第10章 大切なのはモノではなく「人とのつながり」
第11章 コミュニティとつながる秘訣
第12章 小さな喜びが持つ力
エピローグ 愛すべきはモノではなく「生活」

でも、よくわからないんだよね、「本当の幸せ」とか「本当に大切な」とか「本当に好きな」とか「本当の豊かさ」とか。「カネやモノ vs 本当の幸せや本当に好きなもの」という二項図式にするのは簡単だが、全部空虚な言葉に聞こえてしまう。

もちろんこれは、この本や著者に対して文句を言っているわけではない。なんというか、こうした「類型」に対して自分の立場を述べている。

どうなりたいのか、どうあるべきなのか、目的がはっきりしていれば、何を悩むことも無いと思うのだが、僕はそこの肝心の部分が全然わからない。

それで、どうして自分はこんなにも目的がはっきりしないのだろうと考えていくと、「死」というものの存在と、およびそれがこれまで自分の思考の中に占めてきた大きさゆえに「生きる」ということが自分の全体性を司っていない、ということに行き当たるような気がする。

だからと言って、中島義道のように「いずれ死ぬのだから絶対的に不幸である」と暴論を言いたいわけでもない。その気持ちはとてもよくわかるのだが、それでは半分しか物事を物語っていなくて、死があるのと同じくらい奇跡的に生もあるのであって、そこには意識があって、パースペクティヴがあって、物語があって、煌くような幸せがあったりもする。僕が不思議なのはその二重性のほう。

なんというか、中島義道は、「死」によって自らのアイデンティティを確立しようとしすぎていて、あれはあれで知的に怠惰であると思うのだ。(参考:中島義道『不幸論』

まあそれはともかく、もう時効だから言うと、そんな「幸せ」や「目的」が何なのか全くわからない状態で前著『スモールハウス』を書いていて、自分には書く資格が無いのではないかと何度も編集者さんにこぼしたりしていた。

タミー・ストローベルのように「生きる」ことを柱にしても、中島義道のように「死」の側から記述しても、どっちにしても嘘になってしまう。

とりあえず、パッと思い浮かぶ小さな幸せは、こうして好き勝手に、わからないことはわからないままに文章を書いたりできることかもしれない。

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category: 彼岸
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