寝太郎ブログ

2月10日文庫本発売→『自作の小屋で暮らそう: Bライフの愉しみ (ちくま文庫)』

出会いについて  


生まれて最初に家族と出会った。そして、故郷と出会い、言葉と出会い、知識と出会い、家族以外の人と出会った。

僕は知識を理解したのではなかった。知識と出会った。校舎と出会い、先生と出会い、教科書と出会い、文字と出会った。目の前にあったから信じた。

「出会い」というのは罪なものだと思う。出会った人や物や知識は、出会わなかった人や物や知識に比べて、圧倒的に大きな影響を与えてしまう。何の理由もなく。

僕は、あの知識ではなく、この知識と出会った。あの人ではなく、この人と出会った。ということは、あの知識やあの人には出会わなかったということだ。何の理由もなく。

出会った人間が、愚かだったり、悪人だったりしたから罪なのではない。どんなに優れた人間だろうと、たかが一人の人間が「出会い」という機構によって、別の人間に影響を与えてしまうということが罪なのだ。

無数の出会いを必然的なものとして受け入れるためには、最も大きな出会い、つまり「自分の人生」との出会いを受け入れていなければならない。愛の次元に留まらねばならない。人と世界に対する信頼に満ち溢れていなければならない。今という時間の流れと共にあらねばならない。(僕は「生の人格」と呼んでいる。)

「自分の人生」という最も大きな物語が失われれば、出会いは全て、偶然的なものとなる。出会いによって結ばれていた人の残響は消え去り、出会いによって降り注いでいた知識は瓦解する。自分は誰でもない、ひとつの匿名的な存在となる。(僕は「死の人格」と呼んでいる。)

それはそれで心地良い。しかし、その平穏は長くは続かない。なにしろ、生きてゆかねばならない。

偶然的にしか見えない知識や言葉を必然的であるかのように用いながら、「自分は自分の人生に没入していますよ」「今は今ですよ」「あなたと出会っていますよ」と芝居をしながら、生きてゆかねばならない。

「生の人格」と「死の人格」が不協和音を奏でる中で、生きてゆかねばならない。




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category: 彼岸
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