寝太郎ブログ

2月10日文庫本発売→『自作の小屋で暮らそう: Bライフの愉しみ (ちくま文庫)』

親友の自給  


他人に興味がないのにどうして読んだり書いたりするのか、それを不思議に思う人がいるらしい。僕にはどうしてこれがわからないのか、そっちのほうが不思議なのだが、とりあえず書いてみる。

まず、僕は言うほど本を読んでこなかったし、今現在も量を読むわけではない。他人のブログもそんなに読まない。だから、何でもかんでも読み漁ったりするイメージがあるとすれば、それは単に誤解である。

それでも少しは本を読む。ブログを読むこともある。それは単にそこに自分を探しているということに尽きる。自分をそこに見つけて、かつうまく表現されているとき、とても嬉しい。よくある理由だと思う。

それを「他人に興味がある」と言われると、どうも違う気がする。自分と違う種類の人の文章を読んで、影響や刺激を受けたり、視野が広がって嬉しいなどということは全く無い。だから僕は、小説でも哲学でもノンフィクションでも、基本的に女性の書いたものは読まない。男性の書いた小説でも、女性が主人公のものは読まない。違う生き物だと思っているから、興味も湧かないし、読んでもだいたいつまらない。

それから、書くほうだが、これは何段階かに分けて説明する必要がある。

まず僕は、それを公表するとしないとに関わらず、昔から書く。自分自身に説明するために書く。自分しかわからないような暗号的な書き方もするし、実際、そのまま見せても他人には何が書いてあるのかよくわからないと思う。

それで、書いたものの一部を公表したりする。これは自分が他人の書いたものを読むのと全く同じ理由で、「わかるわー」という感想が欲しいためである。小屋生活やライフスタイルについて書くのも、究極的には「わかるわー」が欲しいためである。それを「自己顕示欲」と言われると語弊があるように感じるし、「他人の自分に対する興味を欲している」と言われてもやはり違う気がする。

「わかるわー」以外何も求めていない。中傷や批判はもちろん求めていないし、賞賛されても何の得も無いし、別の視点からの意見によって何か考えが変化・発展することも求めていないし、意味不明に敵対的だったり、逆に友好的だったり、説教、忠告や解釈のようなものは当然うんざりする。勝手な解釈によって「わかるわー」と言われても、むしろ腹が立ったりする。

単に「共感」が欲しいわけではない。何でもいいから「共感」が欲しいというだけならば、もう少し人間としての最大公約数的な話題に流れてゆくはずである。あるいは、そもそも言葉による共感は捨てて、もっと音楽とか映像とか、感覚的な共感に訴えるはずである。そうではなくて、自分について細かな襞まで説明した上で、なおかつ「わかるわー」が欲しい。多数の「わかるわー」が欲しいのではなくて、ホンモノの「わかるわー」が欲しい。そのためには結局、言葉しかない。

そうして共感し、あるいは共感された人と現実的に知り合いになるというのはあまり意味がない。書き言葉で伝わる以上のことは伝わらない。むしろ、現実的な交流ではノイズが増えるだけな気がする。書き手が今、生きているかどうかもあまり関係ない。

さらに、どんなに自分と似た人の書いたものでも、細部までこだわってゆくと当然、どこかで違ってくるのであって、完全に満足できる言葉の塊はこの世界には無いのだということがわかってくる。だから、自分で作る。自分で書いたものに対して「わかるわー」と言う、これが一番、満足がいく。

公表することで書いたものと距離ができて、自分の書いたものであるにもかかわらず、まるで他人が書いたもののように感じる。それを読んで、「この人の言うことわかるわー」と思う。自分の無二の親友を自給しているようなものである。

では、どうして「わかるわー」が欲しいのか。これは僕にはまだよくわからない。




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category: 彼岸

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