寝太郎ブログ

2月10日文庫本発売→『自作の小屋で暮らそう: Bライフの愉しみ (ちくま文庫)』

旅の進化  


第一段階:日常と非日常、パースペクティヴと匿名性の往復

小さい頃から隣の町や、隣の隣の町へ行っては無意味にぶらぶらして帰ってくるということをよくやっていた。その頃の旅の楽しみといえば、馴染みの無い土地がもたらしてくれる観察者としての感覚、誰も自分のことを知らない透明性・匿名性の感覚、自分が生まれ育ってきた町というパースペクティヴを逸脱する感覚、そしてまた、旅から戻ったときに以前より新鮮になって取り戻される日常生活とパースペクティヴの感覚の心地良さだった。

日常生活は「生きる力」が今、ここ、私という存在を中心に枝葉を伸ばしてゆくことで遂行されるものだが、観察者や匿名性といった旅の感覚の極限には死の観念がある。死は、無限の観察、無限の匿名性、パースペクティヴからの完全なる逸脱である。つまり幼い自分にとって旅は、生と死に由来する二つの人格の間を意図的に大きな振れ幅で往復するという遊びだった。


第二段階:自分のものではない無数の日常、無数のパースペクティヴを味わう

高校くらいになると、ただ単に心の変化の往復や人格の移り変わりを楽しむだけでは物足りなくなる。新たに芽生えたのは、観察者でいながらにして他人のパースペクティヴというものをどれだけ味わえるか、というような興味。

この感覚は自分ではよく認知できていなかったが、当時付き合っていた恋人と電車で遠出したときに、窓から見知らぬ町並みを眺めていて「この一つ一つの家に生活があるなんて信じられない」と彼女が言っていたのを聞いて、そういうことかと思った。つまり、この頃の旅というのは、自分のものではないパースペクティヴが無数にあるのだということを外部から確認してゆく作業だった。外に出てその空気に浸り自分自身が変化するのではなく、電車やバスの中からただ単に眺めてただ単に「知る」のが好きになった。


第三段階:日常と非日常、パースペクティヴと匿名性の融合

やがて、無数のパースペクティヴを飛びまわる遊びにも飽きてくる。一方で、二十代の中頃から、生と死という二つの感覚ないしは二つの人格を統一したいという気持ちが強くなった。そう思った理由はいろいろあるが、大きな理由のひとつは「もっと本気で生きたい」と思ったことである。

「本気で生きる」とはどういうことか。全身全霊で生きるということである。全身全霊で生きるとは、意識の世界から無意識の世界まで、自分の内部にあるものを全て投じて生きるということである。つまり、自分の内部に不可侵の断片が転がっていたり、人格の分裂が生じていたり、人格を使い分けて世渡りをしている限り、本気で生きることができなくなる。だから、常に自分は一人格でなければならない。

大学にいた頃は、人格の同一性に対する欲求を、言葉の世界の中だけで解消しようとしていたが、学校を出てからは、その欲求がライフスタイルに向けられるようになる。生と死の人格の同一性とは、ライフスタイルの言葉で言い換えるのならば、日常生活と旅との融合である。

日常生活に埋没してしまうと観察することができなくなるが、旅に徹して観察ばかりをしていると今度は生きている実感や、今は今である、私は私であるという感覚が無くなる。だから、生活と観察とを一個人の内で両立させるためには、つまり観想的な生活をするためには、旅をするように暮らすか、暮らすように旅をするのがよい。実際、小屋暮らしやテント暮らしは旅寄りの日常生活であるし、バックパッカーというのは日常生活寄りの旅である。

一方の極限は日常生活(生)であり、もう一方の極限は旅(死)である。どんなライフスタイルを選択するにしても、その最も遠いところにある極限同士を融合させるための必要条件が、シンプル・ミニマルであることだと感じている。




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category: 旅一般

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