寝太郎ブログ

2月10日文庫本発売→『自作の小屋で暮らそう: Bライフの愉しみ (ちくま文庫)』

瞑想中毒  


「瞑想なんて、タダ飯タダ宿のために行ってんだよ」などと強がっている僕ですが、実は最近、座りたくて仕方がありません。

と言っても、お寺の瞑想コースに入ってがっつり座るのではなく、日常的に「あー、座りたいな」と思うのです。そもそも、お寺のコースは日程を決めて遠くまで行かないといけなかったり、近場は予約で一杯だったりして、座りたいと思ったときにすぐに座れないのです。

そうすると、困るのが場所です。基本的には公園や屋上などの開かれた野外でやるものではないですし、ドミトリーで座るわけにはいきませんし、安宿のシングルルームで座るのもなんとなく気分が乗りません。

本当は、場所や環境に左右されるようでは、自分一人の時間になっているとは言えないと思います。雰囲気に後押しされて瞑想が捗るようでは、所詮は他律的なプロセスに過ぎず、そもそもの瞑想の目的から大きく外れています。そこを妥協すると、宗教と大同小異になってしまうと思うのです。

とはいえ、人間だれしも、宗教的な部分を大いに持っています。どんなに宗教が嫌いな人でも、宗教性は持っています。本気で悟りを開こうとするのではなく、仏門に入るわけでもない俗人が、「場所」がもたらす力を大いに活用するのは構わないと思うのです。

それで、「どこか座れる場所無いかな~」とアテもなく周辺を彷徨います。これはどう見ても、喫煙者が「どこか吸える場所無いかな~」と喫煙スペースを探してウロウロするのと同じです。つまり、一種の中毒です。

P1060703.jpg

そうすると、必然的に大小点在するお寺に足がゆくのですが、お寺自体は瞑想をするための場所ではなく、参拝客が来て、お祈りして、お布施をして、すぐに帰ってゆくところです。口唱(chanting)のために人が集まっていることはありますが、日常的に瞑想目的で人が集まるというのは聞きません。

僧侶の方に「小一時間座って瞑想するような場所ありませんか」とお聞きしたところ、「お堂でどうぞ」ということだったので、こんなような、お寺の隅っこのほうで座らせてもらってます。

P1060706.jpg

長く合掌している人はいますが、僕以外、瞑想している人はいません。

僕は、瞑想についてまことしやかに囁かれている「効能」を必要以上に信じてはいません。なんかもう、それどこかに書いてあったんじゃないの、というような瞑想体験談が巷に溢れています。外部から仕入れた物語を自分がなぞってしまい、まるでその通りに自分が変化したかのように錯覚するパターンです。

そんな魔法みたいなもんじゃありません。ただ座りたいときに座るだけです。

新しい小屋の構想で一つ迷っているのが、瞑想スペースを独立で設けるかどうかということです。ミニマムな小屋にするためには、間接照明や屏風みたいなのをうまく使って、同じスペースを使いつつ、違う意味を持つ空間にできたらいいなと妄想しています。




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category: 瞑想

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