寝太郎ブログ

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仏教に対する違和感  


日本でヴィパッサナー瞑想の10日間コースに参加して以来、約半年間、瞑想およびそれを取り巻く仏教の思想体系に大きな関心を寄せてきた。

自分が今の生活を始めた頃から、折に触れ仏教について耳にすることが多くなってきたし、また自分の考え方と一部重なる部分も確かにある。たとえば、感情や煩悩は抑圧したところでどうにもならないから、それをあるがままに受容し、そのエネルギーを解放し、味わい、一方でそれらに支配されないように常に気づいている、そういった「自分自身の御し方」は自分の考えてきたこととピタリと重なる。

しかしながら、現段階で思うことは、「仏教はどこまで行っても宗教である」ということである。今日はこれについて書きたい。

自分は巨大なエゴ(自我)を持っていることをよく知っている。エゴというのは、セルフィッシュ(利己的)というような小さな意味ではなく、「私」「私のもの」「これが私だ」というような、自己という概念を作り上げる一切のものである。

自分のこれまでの一切の活動は、自分自身の城を作るところから、それを表現するところまで、このエゴが為してきた業である。たまに僕のやっていることに関して「金のため」だとか「名声のため」だとか、とても穏便な解釈をしてくれる優しい人がいるが、実際はそんなちっぽけなものではなく、もっとずっと凶暴な「エゴそのもの」が大きな動機となっている。エゴは手段ではない。それによって何かをしたいとか、人を助けたいとかではなく、エゴ自体が目的なのである。

自分のエゴには、自分の「思考」が大きく関わっていることも知っている。僕は自分の思考を矛盾無く過不足無く書き表した一冊のノートが欲しいと常に思っている。「これが私だ」「これは私ではない」というようなことを、逐一確認したいという欲求に満ちている。現に、今この瞬間も、仏教と自分との本質的な違いはどこにあるかということをはっきりさせたがっている。

また、そのエゴが自分のあらゆる苦悩の源泉となっていることも知っている。不変的なエゴを作り上げようとするものだから、自分自身および周囲の変化に苦しむ。自我の大きな人は非常に嫌われやすいし、自分自身も居心地が悪い。そもそも僕はエゴの小さな人やアイデンティティの確立に無欲な人、他人や背景との境界がぼやけた人やデリカシーが無い人と、どのように付き合ったらいいのかよくわからない。

それから、自分はある側面においてとても貪欲であるし、時として嫌悪の感情を抑えられないことがあるし、無知ゆえに優柔不断や自己不信に陥ることもあるし、それら全てのことがエゴを強大なものにしている。というより、自分の実感としては、それら煩悩がエゴを作り上げているのではなく、本体である強大なエゴから全ての煩悩が生み出されているのである。煩悩が先なのではなく、エゴが先なのである。

他にも枚挙に暇が無いが、自分は自尊心が大きく、恐怖と不安の感情に満ち溢れている。過去に縛られていて、現在を生きていない。自分は刻一刻と変化できず、自分には自由がない。自分は常に別の可能性に脅えている。すべて自分の巨大なエゴから生み出されたものである。

一言で言えば、自分は仏教的には、超劣等生である。

仏教の教えと瞑想の究極的な目的は、この「エゴ」というものを小さくしていって、消去してしまうというところにある。その具体的な方法やプロセスは実に多種多様であり、たとえば主要なメソッドとしては「あるがままに気づいていること」が挙げられるが、いずれにしても行き着く先は同じである。エゴの消去。いかなる状況においても、いかなる対象に関しても、あらゆる執着を捨て、最終的には「私」という存在に対する執着も捨てる。

一体、何のために?何のためにエゴを消去しようとするのだろうか。

人間や生命が存在している理由がわからない限り、エゴを消去すべきかどうか、その答えはわからないはずなのだ。この世界の客観的な事実として、エゴも思考も確かに存在する。高等生物だけが、思考によって時を止めることができる。記憶を集積し、知識を集積し、「私」を構築することができるのは高等生物だけである。それが善いことか悪いことか、正しいことか間違ったことか、誰にもわからない。わからないのだから、エゴを消去すべきかどうか、選べないはずなのだ。

しかし、仏教は容易に選ぶ。なぜなら、「何のために」という目的がはっきりしているからである。「苦悩から解放されるため」「真の自由を手に入れるため」「人生を軽やかにするため」「幸福になるため」という目的のもとに論理が閉じているからである。選べないはずのものを、幸福という基準を設置して、選んでいる。その基準において、エゴを何か余計なものとして切り捨てる。僕はそこに欺瞞を感じる。

その欺瞞は、エゴの消去に至るまでの一歩一歩に浸透している。たとえば、無常。仏教も瞑想指導者も簡単に「万物は刻一刻と変化しています」と言う。ブッダは簡単に「自己には持続的な実体はない」と言う。本当にそうだろうか。物質も精神も、変わるものもあるし、変わらないものもある。むしろ、これだけ心も体も変化しているのに、「自己同一性」という誰もが知っている概念があることがこの世の奇跡であり、美しいところでもある。それを彼らはいとも容易く、「万物は変わり続けているのだから、エゴは幻想です」と言い切る。どうして言い切れるのか。そう言い切ったほうが幸福のために都合が良いからである。

彼らは「あなたは瞬間瞬間に死んでは生まれています。すべてのものが新しいのです」と言う。確かに、ある種の修行によってそのような精神状態になることはできるのかもしれない。過去に束縛されず、現在にのみ生きる。どんな変化も受け入れる。真の自由。しかし、それが正しいかどうかはよくわからない。

仏教の教えや瞑想が「人生の役に立つ」であろうことは否定しないし、実際にそれらを用いて大きな苦悩を抱えていた人が何らかの救済を得ることも全く否定しない。ただ、あくまでそれだけのことである。幸せになるための便宜的な道具でしかない。エゴを捨てることが「正しいかどうか」とは何の関係も無いのだ。仏教も瞑想もなぜか「宗教である」ということを否定したがる傾向にあるようだが、最初に目的ありきで取捨選択したり事実を創ったりする点において、どこまで行っても宗教である。

自我や思考は人間にとって本質的なものかもしれないし、そうでないかもしれない。しかし自分にとっては、自我を構築し、自我を守ろうとし、自我に振り回され、そして自我の中で傷つけられる、そういう生き方しか選択肢にない。そして、そのような生き方と仏教的な生き方とに優劣をつけるような絶対的な基準は存在しない。




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category: 仏教

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