寝太郎ブログ

2月10日文庫本発売→『自作の小屋で暮らそう: Bライフの愉しみ (ちくま文庫)』

仏教に対する違和感  


日本でヴィパッサナー瞑想の10日間コースに参加して以来、約半年間、瞑想およびそれを取り巻く仏教の思想体系に大きな関心を寄せてきた。

自分が今の生活を始めた頃から、折に触れ仏教について耳にすることが多くなってきたし、また自分の考え方と一部重なる部分も確かにある。たとえば、感情や煩悩は抑圧したところでどうにもならないから、それをあるがままに受容し、そのエネルギーを解放し、味わい、一方でそれらに支配されないように常に気づいている、そういった「自分自身の御し方」は自分の考えてきたこととピタリと重なる。

しかしながら、現段階で思うことは、「仏教はどこまで行っても宗教である」ということである。今日はこれについて書きたい。

自分は巨大なエゴ(自我)を持っていることをよく知っている。エゴというのは、セルフィッシュ(利己的)というような小さな意味ではなく、「私」「私のもの」「これが私だ」というような、自己という概念を作り上げる一切のものである。

自分のこれまでの一切の活動は、自分自身の城を作るところから、それを表現するところまで、このエゴが為してきた業である。たまに僕のやっていることに関して「金のため」だとか「名声のため」だとか、とても穏便な解釈をしてくれる優しい人がいるが、実際はそんなちっぽけなものではなく、もっとずっと凶暴な「エゴそのもの」が大きな動機となっている。エゴは手段ではない。それによって何かをしたいとか、人を助けたいとかではなく、エゴ自体が目的なのである。

自分のエゴには、自分の「思考」が大きく関わっていることも知っている。僕は自分の思考を矛盾無く過不足無く書き表した一冊のノートが欲しいと常に思っている。「これが私だ」「これは私ではない」というようなことを、逐一確認したいという欲求に満ちている。現に、今この瞬間も、仏教と自分との本質的な違いはどこにあるかということをはっきりさせたがっている。

また、そのエゴが自分のあらゆる苦悩の源泉となっていることも知っている。不変的なエゴを作り上げようとするものだから、自分自身および周囲の変化に苦しむ。自我の大きな人は非常に嫌われやすいし、自分自身も居心地が悪い。そもそも僕はエゴの小さな人やアイデンティティの確立に無欲な人、他人や背景との境界がぼやけた人やデリカシーが無い人と、どのように付き合ったらいいのかよくわからない。

それから、自分はある側面においてとても貪欲であるし、時として嫌悪の感情を抑えられないことがあるし、無知ゆえに優柔不断や自己不信に陥ることもあるし、それら全てのことがエゴを強大なものにしている。というより、自分の実感としては、それら煩悩がエゴを作り上げているのではなく、本体である強大なエゴから全ての煩悩が生み出されているのである。煩悩が先なのではなく、エゴが先なのである。

他にも枚挙に暇が無いが、自分は自尊心が大きく、恐怖と不安の感情に満ち溢れている。過去に縛られていて、現在を生きていない。自分は刻一刻と変化できず、自分には自由がない。自分は常に別の可能性に脅えている。すべて自分の巨大なエゴから生み出されたものである。

一言で言えば、自分は仏教的には、超劣等生である。

仏教の教えと瞑想の究極的な目的は、この「エゴ」というものを小さくしていって、消去してしまうというところにある。その具体的な方法やプロセスは実に多種多様であり、たとえば主要なメソッドとしては「あるがままに気づいていること」が挙げられるが、いずれにしても行き着く先は同じである。エゴの消去。いかなる状況においても、いかなる対象に関しても、あらゆる執着を捨て、最終的には「私」という存在に対する執着も捨てる。

一体、何のために?何のためにエゴを消去しようとするのだろうか。

人間や生命が存在している理由がわからない限り、エゴを消去すべきかどうか、その答えはわからないはずなのだ。この世界の客観的な事実として、エゴも思考も確かに存在する。高等生物だけが、思考によって時を止めることができる。記憶を集積し、知識を集積し、「私」を構築することができるのは高等生物だけである。それが善いことか悪いことか、正しいことか間違ったことか、誰にもわからない。わからないのだから、エゴを消去すべきかどうか、選べないはずなのだ。

しかし、仏教は容易に選ぶ。なぜなら、「何のために」という目的がはっきりしているからである。「苦悩から解放されるため」「真の自由を手に入れるため」「人生を軽やかにするため」「幸福になるため」という目的のもとに論理が閉じているからである。選べないはずのものを、幸福という基準を設置して、選んでいる。その基準において、エゴを何か余計なものとして切り捨てる。僕はそこに欺瞞を感じる。

その欺瞞は、エゴの消去に至るまでの一歩一歩に浸透している。たとえば、無常。仏教も瞑想指導者も簡単に「万物は刻一刻と変化しています」と言う。ブッダは簡単に「自己には持続的な実体はない」と言う。本当にそうだろうか。物質も精神も、変わるものもあるし、変わらないものもある。むしろ、これだけ心も体も変化しているのに、「自己同一性」という誰もが知っている概念があることがこの世の奇跡であり、美しいところでもある。それを彼らはいとも容易く、「万物は変わり続けているのだから、エゴは幻想です」と言い切る。どうして言い切れるのか。そう言い切ったほうが幸福のために都合が良いからである。

彼らは「あなたは瞬間瞬間に死んでは生まれています。すべてのものが新しいのです」と言う。確かに、ある種の修行によってそのような精神状態になることはできるのかもしれない。過去に束縛されず、現在にのみ生きる。どんな変化も受け入れる。真の自由。しかし、それが正しいかどうかはよくわからない。

仏教の教えや瞑想が「人生の役に立つ」であろうことは否定しないし、実際にそれらを用いて大きな苦悩を抱えていた人が何らかの救済を得ることも全く否定しない。ただ、あくまでそれだけのことである。幸せになるための便宜的な道具でしかない。エゴを捨てることが「正しいかどうか」とは何の関係も無いのだ。仏教も瞑想もなぜか「宗教である」ということを否定したがる傾向にあるようだが、最初に目的ありきで取捨選択したり事実を創ったりする点において、どこまで行っても宗教である。

自我や思考は人間にとって本質的なものかもしれないし、そうでないかもしれない。しかし自分にとっては、自我を構築し、自我を守ろうとし、自我に振り回され、そして自我の中で傷つけられる、そういう生き方しか選択肢にない。そして、そのような生き方と仏教的な生き方とに優劣をつけるような絶対的な基準は存在しない。




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category: 仏教
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コメント


たしかに客観的な科学ではなく、選びとるもの、趣味ですね。エゴを超えたと感じるときに、全体との一体感を感じ、喜びと平安を感じる。それが快いということです。

tripod31 #- | URL
2015/01/10 18:31 | edit



『感情や煩悩は抑圧したところでどうにもならないから、それをあるがままに受容し、そのエネルギーを解放し、味わい、一方でそれらに支配されないように常に気づいている、そういった「自分自身の御し方」』

これ、儒学も同一の考え。
一時的な欲求=本性=仁 副次的な欲求=理性=義
放縦な仁は義を損ない、義に拘泥すれば仁を損なう。義に留める為の規範が礼。

ゆうた #tHX44QXM | URL
2014/12/22 19:48 | edit



愛、哀、I

愛やで、寝太郎。
結局愛しか残らんのや。
前言うたやろ。

おまんもじき気付くわ。
なーんや、人生こんなにsympleやったんか!てな。



卍 #- | URL
2014/12/13 10:49 | edit



にんげんが かみをみるときの かんがえかたが
ぶっきょうだとおもうですよ
けっきょくかみとは にんげんにはどうにもならない
げんじつ であるわけで

くるしいのがすき から くるしいのはもういやだ に
かわったときにはじめて えごをどうのこうのと
かんがえれば いいんじゃない?

雲 #EBUSheBA | URL
2014/12/13 10:37 | edit



で、この「運」という概念も、人間の生み出した、勘違いなんですよ。人間はいろんなものに意味を見出そうとする生き物なんですね。たとえばコイントスをやったって、表と裏が出る確率は、常に2分の1なわけですが(正確には、コインの柄の重量差があるのできっちり2分の1ではないが)、表、裏、表、裏、と交互に出ることなんてまずない。表表表表裏裏表・・といったぐあいに、連続して表が出たり、偏りが出るのが自然なんです。
だから、悪いことが3連続、4連続で起きることも、これまた自然なことで、別に意味なんてありゃしないんですが、運が悪い、呪われてる、とか自分勝手な解釈をしてしまう。
でも人間は自分を特別な存在と思ってるから、こう思うのも無理ないんだ。

無無 #AIlHpmOk | URL
2014/12/11 21:58 | edit



神とは何か、それを考えたとき、およそ人間の物差しで測るようなものではないと思いますねえ。私がもし神を定義するなら、それは「物理法則そのもの」と思いますね、物理法則は一定で不変ですから、それが私の定義する神です。別にある特定の個人に恩恵を与えてくれるのが神なんて認識ありませんね。たとえば雷雨の中、雷が落ちたけど、すぐ近くの木に落雷して、命拾いした人が、「運が良かった、神様のおかげだ」と
思ったとして、それはただ単に、木のほうがでかくて、そっちに落ちる確率が高かったっていう物理法則的な話でしょ。しかも、これは「木」にとっては運が悪いって話になりますよ。「木」は何も悪いことしてないのに、落雷に焼かれてすごく運が悪い、なんてことは誰も思わないでしょう。結局、「木に雷が落ちた」という、ただの現象に過ぎない。そこにどういう意味や解釈を見出そうと自由ですが。

無無 #AIlHpmOk | URL
2014/12/11 21:46 | edit



エゴ、生き物は利己的に誕生しているのだから、エゴであるのは、当然
であると考えてます。そして私は相利という考え方をしてます。利己的
にしているのに、それでいて他を害していない。共存することができて
いる。熱帯のジャングルでは、植物と昆虫とかがそんな関係であるこ
とできていたのですが、ボルネオでは油やしを植えることで、それが
破壊されてます。残念です。
それから私は神のことを考えていますが、宗教は嫌いです。

O.M> #- | URL
2014/12/11 20:45 | edit



にんげんはたいへんそうだにゃあ・・・

動物 #- | URL
2014/12/11 19:01 | edit



「ブッダの教え」と「仏教」は別のものだと思いますよ。

ブッダの教えは生き方だけど宗教じゃない。
仏教は後の人がブッダの教えにもとづいて作った宗教です。

それと、ブッダの教えでは生きることに目的も意味もなく、人間は単に生まれて生きて死んでいくだけ、そのなかで心の平穏を保って自分の役割を果たしましょうということなので、エゴが必要かどうか以前に、エゴなんていうものは幻想であって、そもそも存在しないという考えだと思います。

自己同一性もアイデンティティも空想の産物ということですね。

どちらを選んでどのように生きていくかは完全に自由ですが、仏教やブッダの教えに対して誤認があるんじゃないかと思いました。

ミロロン #eqP7eH0Y | URL
2014/12/11 11:47 | edit



これは分かる。自分と他人は分けたい。
でも、一方で、子供のころから、僕は「さかい目」っていうものにすごい興味があった。雨が降っているとき、雨が振っているところの端まで行って、雨が降っている世界と振っていない世界を行き来したいと思った。旅行のとき、移動している自分が好き。自分が自分でなくなるように感じる瞬間が好き。っていうことは、僕は寝太郎さんからすると、時に付き合い方の分からない、「他人や背景との境界がぼやけた人」に見えるのかもしれない。それとも、さかい目を確認することで、逆に自我の果てを、あるいは世界の果てを、確認しようとしていたのかな。それなら、やっぱりエゴが好きだということになるのだろうか。

モスバーガー #- | URL
2014/12/11 04:45 | edit



人間の脳は常に報酬を求めている。脳が「これは気持ちいいものだ」と認識したら
脳はその行為を繰り返し要求する。おいしいものを食べたらまた食べたくなるとか
セックスの快感は強烈で、覚せい剤の快感はさらに非常に強烈なため、脳が反復してその行為を求める回路が形成される。脳がドーパミン等の快感物質の不足状態に
陥ると、意欲、活動欲求が低下し、無気力な状態に陥る。知的好奇心を満たすことで
私は脳に快感物質を供給している。具体的には本を読んだり旅に出たりすることですね。私は自分の行動が何によって支配されているか知りたくて脳科学や心理学の本を読みました。私が一番知りたかったのは、「自分とは何か」ということだからです。

無無 #AIlHpmOk | URL
2014/12/10 21:39 | edit



>最初に目的ありきで取捨選択したり事実を創ったりする点において、ど>こまで行っても宗教である。


仏教の目的は「苦しむのをやめる」ということでしょう。
その方法を説いてるのが仏教。
宗教というより心理学ですよ。

アワビ通信 #fP6VEq.2 | URL
2014/12/10 19:09 | edit



貴方は純粋に哲学者ですねぇ

バッタモン #- | URL
2014/12/10 08:21 | edit



久しぶりに日本語でハッとするような文章を読んだ気がします。
面白かったです。ありがとうございます。
長くないよ。こんなに短く要点を伝えられるのはすごいです。
また読みに来ますね。

なおなお #- | URL
2014/12/09 17:30 | edit



ブッダが独りで苦行をして、瞑想してる時の考え方は素敵だったけど、宗教として活動したのはあんまりだったな、と思う。
どんなに良い教えでも、大きな集団の中で純粋さを保っていられるわけがない。

No Name #- | URL
2014/12/09 11:43 | edit



いや、要するに宗教というのは、「これがベストだ」という人生マニュアルなんですよ。
だから別に全否定するものでも全肯定するものでもない。ただ偉人たちがいろいろ考えたあげくのベーシックなものであるから、もちろん自分の人生に取り入れていくぶんには良いと思うが、ただ、別にそれは絶対全部そのまま実行すべきなんだ、ってことにすると盲信者になっちゃう、キリスト教でも仏教でもイスラム教でもユダヤ教でも、全部それなりにいいこと言ってるんだから、それぞれ自分でああそうだなと納得できる部分だけ取り入れればいい、別にミックスしたっていいじゃないか。矛盾してるところは矛盾したままでいい、陰陽一体というか、なかなか白黒決められないことばかりだ。白でも黒でもありという曖昧で優柔不断で葛藤し続ける、それでいいと思う。自分で考えて自分で判断する、そのための参考材料にすぎない、すべては。だから一つの宗教を信仰するってことは無い。

無無 #AIlHpmOk | URL
2014/12/09 09:16 | edit



うん!

長くて読む気になれない!

あ #- | URL
2014/12/09 01:35 | edit



同感です
基準を仏教が決めること自体に違和を感じます

閉じた論理の中であぐらをかいているような
探求がない

No Name #- | URL
2014/12/08 23:21 | edit



ありがとな、寝太郎。
ありがとう。
会社でこれ、プリンタウトしてな、帰りの電車で読んだ。
いや、読ませていただいた。

面白かったわ。
おまんはやっぱり、大した野郎だ。

卍 #- | URL
2014/12/08 23:10 | edit



自我が大きい人は、人との協調性を重視する農耕民族には確かに嫌われますね。
もともと日本人に「個人」という概念自体ほぼ存在しなく、明治時代以降に欧米的な
思想が流入するにつれ、個人、自己、なるものが確立されていったんですね。
昔は「村八分」なんてものもあり、常に周りとの協調を考えねば生きていくことさえ
難しかった、ゆえに自我を独り占めすることはできなく、親兄弟、親戚から村、町等の
コミュニティに思想を縛られ(というか思想なんてもの自体あったかどうか)生きてきたわけです。ですが今の時代は、「自我」を独り占めしたところで、自分一人で生きていければ何も問題はないので、寝太郎さんのようなライフスタイルをとることもできるわけですね。

無無 #AIlHpmOk | URL
2014/12/08 22:36 | edit



並阿弥陀仏並阿弥陀仏

No Name #- | URL
2014/12/08 20:50 | edit



よう耐えなさった。涅槃はすぐそこですぞ。

ゴータマ #- | URL
2014/12/08 18:20 | edit



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