寝太郎ブログ

2月10日文庫本発売→『自作の小屋で暮らそう: Bライフの愉しみ (ちくま文庫)』

『「我」を張らない人づきあい 仏教対人心理学読本』  


「苦悩の根源である自意識への執着をやめて、自分のエゴに拘ることをやめれば、こんなに楽にストレス無く生きることができますよ」。このように甘く囁く、仏教の教義に現代的文脈を絡めた本は無数にある。僕は嫌いである。二重の意味で。

まず、生き方として嫌いである。くだらないストレスからはさっさと逃亡すればいいが、自意識と矜持を捨ててなんになろうか。自我に、執着に、自意識に、自尊心に、揉みくちゃになって生きよう。とはいえ、生き方は人それぞれで、勝手にすればよい。他人に口出しするようなことではない。

僕が本当に嫌悪するのは、「自我を軽減すれば楽に生きられますよ」とだけ言っていればよいものを、そこから百歩進んで、あるいはそれを説得力のあるものにするために、「本当は自我なんて無いんですよ」と言い始めるケースである。このケースは本当に多い。

たとえばこれ。
私たちは皆、「建前の鎧を脱いで武装解除した自分」を誰かに受け入れてもらいたいと飢えています。(p.12)
と始まり、他人から評価されたりモテたりするために一生懸命「建前」を磨く一方で、いくら頑張ってもモテているのは「建前」のほうで「本当の自分」ではないという虚しさに、現代の誰もが苛まれているという。導入はとてもわかりやすく、筆もうまい。

以下、この苦悩から抜け出すための考え方が書かれているのだが、その論理の最大のハイライトが、「実は自我なんて存在しないんです」というところである。認識や記憶などを一つ一つ見ていって、「どこにも自我なんてありませんね」と言う。

確かにその通りで、認識にも、記憶にも、感情にも、刺激にも、どこにも「私」なんてものはない。にもかかわらず、誰もが「私は私だ」と感じている。この超弩級の不思議、奇跡、驚きこそが探究の出発点であるはずなのだが、それを無視して、一目散に「だから自我なんてものは幻想なのです」と言い切る。

これはおそらく、哲学的に言えば非常にマイナーな還元主義的立場で(たぶん純粋哲学者にはウケが良くない)、たとえば、「色というのは本当は電磁波と脳刺激に過ぎない、それらのどこを見ても色なんて無い、だから本当は色なんて幻想なんだ、色なんて無いんだ」というような議論に近い。

僕には、この今まさに感じている「私は私だ」という感覚が「幻想である」というのがどういう意味なのかよくわからない。「煩悩を小さくしていけば、私という感覚も薄れていく」という立場はまだ理解できる(賛成はしない、煩悩だらけだろうが悟りを開こうが自我は存在し続けると思う)が、さらに進んで「実は自我なんて無いんです」というのは何を言っているかすらわからない。

だいたい、この本の最初のほうで「本当の自分=暗黒領域=煩悩=アイデンティティ=エゴ=自我」と定義され、「そのアイデンティティを削ぎ落とせばいいのだ」というふうに話が進んでいくにも関わらず、「本当は自我なんて無い」と言うときの「自我」は「私は私である」という形而上学的自我に摩り替わっているのだ。そうでなければ、「煩悩」と「自我」がイコールだとすれば、ただ単に煩悩があるときに自我があり、煩悩が無いときに自我が無い、それだけの話である。

まあ、細かいことはどうでもいい。僕が言いたいのは、「自我が存在するか否か」「自我とは何であるか」「何を以って自我が存在すると言えるのか」というビッグクエスチョンをためらいも無く出してきて、速攻で答えを与え、平然としているその態度が不誠実だということである。「自我があるかどうか」という問いにまともに向き合う気など最初から無いのである。

再度強調すると、「自我を軽減すれば楽に生きられる」ということと「自我なんて本当はないんだ」ということは全くカテゴリーの違う話である。「あの世があると考えれば誠実に生きることができる」と「あの世がある」とが全く違うのと同じことである。「輪廻転生があると考えれば安心して生きることができる」と「輪廻転生がある」とが全く違うのと同じことである。

この本の中で「嘘は内部分裂を招き、苦しみを生む」と書かれていて、まさにその通りだと思うが、本当かどうかよくわからないことを骨組みにして生きる道を決めるというのは、嘘以上の苦しみと自己不信を生むことだと思うのだ。

その苦しみをごまかすための麻薬は、この本の帯が物語っている。

「自意識」への執着を、そっと手放す― すると、人づきあいのストレスが消える。

ストレス無く生きたい、だから自意識を手放したい、だから「自意識なんて無いんだ」と思いたい。

人を不幸にしたいという衝動に駆られて事実を勝手に決めてしまおうとする人はたくさんいる。宗教が厄介なのは、人を幸福にするために事実を決め付けるところである。人間の「幸せになりたい」「救われたい」「自由を感じたい」「もっと楽に生きたい」という欲望は巨大であり、しかも「人を不幸にする」よりも本人に全く罪悪感が無いので、そこに付け込んで人の事実判断能力を鈍らせる。




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category: 仏教

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