寝太郎ブログ

2月10日文庫本発売→『自作の小屋で暮らそう: Bライフの愉しみ (ちくま文庫)』

「頭で考えるな、体で知れ」にゲンナリ  


僕が何か仏教的な「自我」について考えたり言葉にしたりしようとすると、決まって「あなたは頭で考えているからわからないんですよ、端的に実践を通して体で知るべきですよ」「真実を直接に体験することですよ」みたいなことを言う人がいます。

どんな関連書籍を読み進めていても尽くそう書いてありますし、僕が国内外で出会った瞑想好きの人もそうでした。コメントでも以下の通りです(わかりやすかったので取り上げているだけで、書いた本人に対する嫌悪感情があるわけではありません)。

>普通に暮らしていても理解できなくて当然だと思います。ブッダは瞑想で実体験したことしか話していません。だから原始仏教は自分も徹底して肉体的な経験を平静かつ客観的に見つめることでようやく理解可能になります。本を読んだり思索をするのみで先人が言っていることを理解するのは無理です。
>実際、私も初めは疑いを持っていましたけど、正しい方法で続けたら誰でもきっと理解できると思いますよ。繰り返しますが、肉体的に経験しないと本当の理解はできません。

瞑想コースのレクチャーでも、

瞑想は哲学のような知的娯楽ではありません

としつこく明言していました。この言い方一つとっても、「頭での理解」に対する蔑視ないしは軽視を感じるわけです。

確かに言ってることはわかります。体験しないとわからないことがあるのはわかります。しかし、相互理解をそこで終わらせてしまう一刀両断にゲンナリします。人がどうにかして知ろうとする努力をバッサリ切り捨てるようなあの「体験主義」みたいなのはどうにかならないのかなと思います。

僕は自分自身が変わりたいと思っているわけではなく、ただ単に全てのことを知りたいと思っているだけです。そう言うと、自分自身が変わらない限り知ることはできない、といういたちごっこです。

仏陀は何十年修行したとか、感覚を原子レベルまで研ぎ澄まして全身で悟ったのだとか、そんなことを言われても何の説得力も無いわけです。そんなのは「勘違いじゃないの?」と言われて終わりです。そういう権威付けではなく、やはり他人に伝えようとしている限り、言葉を尽くさなければいけないと思うのです。

入り口は言葉であっても、本気で理解しようとしている人は、一種の仮想体験を通じて知ろうとします。僕が体験主義者に対して言いたいのは一つで、人間の想像力をみくびるな、ということです。


それで、実践を強調してくる人は往々にして、僕が「自我」について言っていることに関して致命的な誤解を伴います。

僕はまず、エゴや煩悩を排してゆき、目的や欲望を捨て、外界との垣根を取り除き、「悟り」と言われる状態に至ったとしても、形而上学的な自我、つまり端的に「私」という感覚は残ると思います。しかし、これについては、僕自身が実践して悟ったわけではないですから、それはアナタがまだ知らないだけだと言われれば反論のしようがないです。

そうではなくて、僕が「自我」について言っているのはもっとシンプルなことです。仮に、悟りの状態で一切の自我が失われるとします。「失われる」と言うことは、最初はあったわけです。普通の人間には自我があるわけです。もしも煩悩を持った人が「私は私である」という感覚を持っているのなら、それは端的に人間には「自我」があるということです。それを「実は私なんてものは存在しないのだ」という言い方をするのが全く意味が分からないのです。ただ単に、煩悩がある時は自我があるし、煩悩がない時は自我がないというだけのことです。「実は存在しない」のではなく修行やらなんやらによって「存在したものを消した」だけのことです。

そう言っても必ず「自我が無いという真実は、体験しなければわからないんですよ」と返ってきます。会話が成立しません。「自我を無くすことができる」のと「実は自我が無い」の違いがわからない人たちです。

「自我を無くすことができる」のであれば、あとはただ単に選択の問題になってきます。無くすべきか、携えるべきか。仏教ではとかく自我のマイナスの要素ばかりに注目しがちですが、もしかしたら自我こそがこの世界の究極の目的かもしれませんし、わかりません。もちろん、「苦悩からの解放」を目的に考えるのなら選択は簡単ですが。

しかし、「実は自我が無い」となると、選択もなにもなくなります。単なる幻影である自我を追っ払うのが「真実への道」となるわけです。正解は自我を無くす道にしかないということになります。しかしこれは詭弁です。なぜって、自我は存在するのですから。

体験主義者は、この二つのことがごちゃごちゃになっていることが多いです。ただ単に自我-非自我の一方の極を体験しようとしているだけなのに、いつのまにか「真実を体験する」に置き換わってしまうわけです。もしかしたら、ただ単に自由や幸福を追求しているだけだと足元がふらつくので、「真実」による正当化の後押しを必要としているのかもしれません。




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category: 仏教
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コメント


仏教3.0

アップデートする仏教

青空としての私

http://www.onedhamma.com

お読みになったことありますか。
お探しになっているものはここにあると思いますよ。

No Name #- | URL
2014/12/25 06:26 | edit



知性や想像力を重要視する僕に向かって、したり顔で経験が大事だと語る人がいる。
まるで知性を重んじる僕を否定しているかのようじゃないか。君らの言っていることにも一理あると認めているのに、何故僕が軽んじられなければいけないのか。大変不愉快だ。
乱暴に要約すればこういうことで気分を害されているのであり、
知性に執着しているので、それを軽んじられると、嫌悪という感情を呼び起こしてしまう。
こういったものを生み出しているのが自我だと考えられているのです。

「自らが体験する」ことの要点の一つは、仏陀や教義・教団といった権威を背景に、他者を支配する集団に対しての安全弁であるということです。
誰が何と言おうが、自ら体験してしまえば、それが何であるかを知るのですから、欺瞞や虚偽があれば、すぐに分かるわけです。

ys #mQop/nM. | URL
2014/12/18 10:43 | edit



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# | 
2014/12/16 01:56 | edit



寝太郎さんのマインドはとても知的で美しいですね。
私は一介の探求者に過ぎませんが…あなたのような人が悟り(と呼ばれるような何か)を開かれたら、世界は今よりも素敵なことになるな、と単純に直感しました。

私は、「自我は無い」と言い張る人の中には、「無自我」というエゴを持っている人がいるように感じることがあります。
「私は無自我を知っているのだ(体験した、持っている)」…というエゴです。

私は、真実は個々人の内側にのみ在ると思っています。
「自我は無い」という言説だけが真実であるとは、誰にも言えません。
なぜなら、それはただの言葉だからです。

私には、下手に思考停止している人たちよりも、「頭での理解」に一定の価値を置いている寝太郎さんのほうがよっぽど「悟り」に近いように感じられます。(そして、それ故の危うさも。)

No Name #AIlHpmOk | URL
2014/12/16 01:50 | edit



つまらん

早く 山小屋での話か、貧乏旅行記に戻してよ

1 #- | URL
2014/12/16 00:26 | edit



寝太郎さんほど自己批判、あるいは吟味している人は稀なのに。。
文章から十二分に漏れる(新しい)寝太郎さんの思索を読み込んでほしい

難しい話を考え続けても、別にいいじゃないですか

No Name #- | URL
2014/12/15 23:29 | edit



それより
自分の思想を批判して
常日頃から鍛えてる
アンチニートの立派な
生き方と労働環境と
思想を実名、住所入りで公開してくれよ。
自己批判に徹し
思想を鍛え続けてるとは
アンチニートには恐れ入るぜ
オラまってるからはくしろカス

No Name #- | URL
2014/12/15 23:07 | edit



他人の批判ばかりですね。

自分の思想を批判して鍛えることはしないんですか?

k #- | URL
2014/12/15 22:16 | edit



こじらせすぎだから、もうちょっと行くと自ら死んじゃうだろうね。
要するにウツ病だね。

未来に不安を感じているんだろうよ。
意識無意識に関わらず、脳は感じ取って考えをこじらせちゃう。

まあ、気楽に生きれよ。

じょい #- | URL
2014/12/15 21:29 | edit



哲学と言う学問で解を求めようとするから
苦しいのでは?
個の確立という観点からアプローチすれば
難しい話ではないはず。

No Name #- | URL
2014/12/15 21:09 | edit



う~ん。「マンガ 禅の思想 蔡 志忠」がイメージわくかな~とも思いますが、
教えてもらずに苦労すればしただけ、大きな悟りを得れるので、どうかな~と思います。

頓悟の人 #- | URL
2014/12/15 20:45 | edit



 実存と呼べるものを体験した人が、自我や肉体や世界は実存の中で発生しているだけで実は無いって言っているんじゃないかなぁ……

 自我は実存では無くて、実存の中で発生している現象に過ぎない的な感じ?

ピン #- | URL
2014/12/15 20:41 | edit



レスポンスありがとうございます。

またゲンナリさせてしまったら申し訳ないんですけど、仏教的な立場から私見を述べさせていただきます。


>「頭での理解」に対する蔑視ないしは軽視

「頭での理解」と「体での理解」の両方を最大限に使いましょうってことです。どちらも必須。「頭での理解」そのものを否定しているのではなく、想像力も含めて人間の持っている能力を限界まで利用して物事を知りましょう、理解しましょうって話です。知ろうと努力する者の背中を押しているだけで、バッサリ切り捨ててはいませんよ。


>なぜって、自我は存在するのですから。

普通の煩悩を持った人が「私は私である」という感覚を持っているから、自我は明らかに確実に存在している。だから「自我がない=存在したものを消した状態」だ。

このように話されていますが、確固たる信頼を持って感じていた「私は私である」という感覚自体が、立脚点が無く信用するに値しないあいまいな空想にすぎなかった、と理解可能だとすればどうでしょうか?

「実は自我が無い」というのは、正確には「自我と呼んでいた感覚は空想にすぎなかったと理解した」ということで、"呼んでいた感覚"そのものは依然としてあるわけです。幻想だと理解しつつも存在する。その"呼んでいた感覚"を無くすことができると。


以上です。
やはり不快に思われるようでしたら、もう書きません。

インテ #- | URL
2014/12/15 19:38 | edit



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# | 
2014/12/15 16:24 | edit



すばらしい

言っていることは至極当然、主張するなら言葉を尽くして説明せよって
ことですね。
禅問答とか見てると、自我がないのではなく、自我しかわかり得ないが答えだと思うようになりました。この人を見よですね。

ゆう #- | URL
2014/12/15 16:10 | edit



>「悟り」と言われる状態に至ったとしても、形而上学的な自我、つまり端的に「私」という感覚は残ると思います。

これはブッダも否定してないと思います。
例えば、誰かがブッダの頭を叩いたとしたら「私の頭を君が叩いた」とブッダも認識できます。
我々であれば通常、頭を叩かれたら怒りが発生します。その怒りを生み出すメカニズムのことを仏教では「自我」と呼んでいるのではないでしょうか。その「自我」があるからこそ怒りに任せて叩き返したり、憎んだりするのです。
しかしブッダは怒りを発生させず、瞬時に最適な対応に出ることができるのです。

アワビ通信 #- | URL
2014/12/15 13:40 | edit



頭で考えるな、体で知れではなく、頭で考えるのではなく、感じろと言われるとわかりやすい。
その感じたことを言葉にしようとしても、相手にはその生の体験は体感できないので感じれない。
言い換えれば頭で考えるな、体で知れとも言えます。

結局、現代人は感覚というものが鈍い。
感覚でわかる事を、言葉にして伝えるのは困難。
何故なら、感じる瞬間は一瞬であり、心は一定ではないから。


もっとシンプルなことかと思います。


No Name #- | URL
2014/12/15 13:11 | edit



はじめましてこんにちは。

自我は食欲にたとえればわかりやすいんじゃないですかね。自我はないって言ってる人は「満腹になったら食欲はない」と言ってるだけで、自我はあるって言ってる人は「空腹になったら食欲はある」と言ってるだけなのでしょう。条件次第で、ないとも言えるし、あるとも言える、というだけのこと。

食欲がなければ、たとえば「お金がないから美味しいものが食べられない」という苦しみから解放されますし、他人が美味しいものを食べていても、そもそも食欲がないわけだからなんとも思わないわけですよね。
快楽と苦しみは表裏の存在なので、快楽を求めたら必ず苦しみもセットでくっついてくる。苦しみをなくすには快楽もなくさなければならないわけで、だからこそ、仏教などでは、全てを捨てろ、と言ってるのでしょう。

じゃあ、自我を消す、食欲をなくす、欲をなくすにはどうしたらいいかといいますと、食欲でいう「満腹の状態」にしなければならないのでしょう。そういった状態を作り出すのが「瞑想」なのかなと思います。

のりんきー #lklLK9c6 | URL
2014/12/15 13:02 | edit



あんま深追いすると救いようのない馬鹿になるよ。

まず自分がいかにバカかを知ってください。

救いを求めすぎ。

すずき #- | URL
2014/12/15 12:06 | edit



人間の脳が一つしかないってのは不便ですよ。もし脳が2つとかあったら
一つのことをしながら、もう一つの脳で思考を練ることができるのに。
そしたら、その練った思考をストックしておいて、作業が終わった後に、もう一つの
脳で練った思考をダウンロードして、すぐに意識の切り替えができてパフォーマンスは
大幅に向上するだろう。人間の脳は優秀でどんなコンピュータより優れてるというが
意外とそれほど優秀でもない。一つのことを考えている間は、基本的に別のことを
考えられないし、あー脳が2つ欲しい・・。

無無 #AIlHpmOk | URL
2014/12/15 11:27 | edit



人間の想像力をみくびるな→人の考えれることなんてたかだか知れてる。
と思います。
スイカ大の容積のなかで起ってることより宇宙で起っていることのほうが天文学的に大きいのだから。

たーきー #- | URL
2014/12/15 10:17 | edit



物理学の世界では、完全な0の状態というのは存在しないらしいです。
たとえば宇宙物理学の定説である、ビッグバン理論ですが、無の状態から
いきなりビッグバンが起きた、と言われてますが、そこにビッグバンが起きる
起爆剤となるクォークスープが存在している時点で、無の状態とは言えないでしょう。
それと時間も空間も存在しなかったなんて言われてますが、正しくは時間も空間も測る
物差しがなかった、と言い換えるべきかなと。時間とは事象の変化が観測できねば
測れないし、空間とは物質が存在してなければやはり認識できない(古典物理学の世界では物質がなくても空間は存在すると定義できたようだ)

無無 #AIlHpmOk | URL
2014/12/15 09:20 | edit



体験を強調する人は、自分でもよくわかってないから説明ができないだけ。
自分に起きたことを説明できるから悟ってるってわけでもないけど、せめて仏陀並みにやったことの説明ぐらいはしてもいいと思うよね。

せぴあいろ #- | URL
2014/12/15 06:50 | edit



仏教も物事もよく知らないですが、
数字の 0 の発見や証明が出来ない話に
ヒントがあるかもしれないです。

寝太郎さんが仏教的アプローチを望んでらっしゃるかどうか?までは
読み取れないので、変化球すぎてるかもしれませんが
何かをお探しな様子の様に伺えましたので
生意気ながら、少しだけ思ったことを書いてみました。
違っていたら、差し出がましい行為をお許しください。

尚、ブログを大変楽しく読ませていただいておりますが、
全てに目を通しておりませんので、
0 についてのお話を今までにされてらしたら、
重ねてお詫び申し上げます。

No Name #mQop/nM. | URL
2014/12/15 01:45 | edit



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