寝太郎ブログ

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マンガが読めない  


マンガが読めない。絵と文字とが両方あると、気が散って全然話が入ってこない。読んでいてもやたらに疲れてしまう。

普通の本やブログでも、文字が小さくなったり大きくなったり、文字に色がついていたり、何回も同じことが繰り返されていたりすると、気が散って読めない。

書籍以外でも同じで、たとえばテレビは厄介である。テレビの情報量というのは実際とても少なくて、その代わりに装飾が多い。その装飾がワーッと迫って来るばかりで、実際言っていたことを文字に書き表してみると、ほんの数行で済むことだったりする。

現実の遣り取りでも、喜怒哀楽を付けてものを言う人や、如何にも自信ありげに何かを言う人や、大声を出したり、何度も同じことを連呼したり、音声記号以外のところで頑張る人がいる。果ては、美しい声で歌ったり、メロディやリズムに乗せて何かを言う人もいる。

絵自体は別に嫌いでも何でもないし、テレビ自体も嫌いというわけではないし、音楽も好きだし、人間の感情に興味が無いわけでもないけれど、それと記号とが同時にくるとわけのわからないことになる。

絵と記号とが同時にくると言っても、たとえば図鑑は問題ない。絵や写真や映像自体が問題なのではなくて、それが単なる装飾として使われているのが問題なのだ。

情報そのものと、その情報を入れる器とがある。どんな器に入れるかによって、その情報がどのくらい重要であるかを記号以外の方法によって示しているとも言えるし、また、美しい器に入れることで自分の持っている情報を広範囲に拡散しようとしているとも言える。

日常生活に必要な情報はほぼ全てそうした非合理的な仕方でやって来る。究極的には「よく見るから」とか「親がやっていたから」とか「偉い人が言っていたから」とかそういう非合理的な理由に帰着する。どの情報が重要か、どの情報を信ずるべきか、どの情報を受け取るべきか、個人が完全に合理的に判断することなどできない。

知識というのはそうやって人の心から心へ受け継がれてゆくものである。特に、(文明よりも)文化的な知識はそうである。器に関する感度が摩耗し、そういう情報伝達経路が遮断されてしまうと、生活がままならなくなる。

孤独な人間というのは、基本的に馬鹿である。




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