寝太郎ブログ

2月10日文庫本発売→『自作の小屋で暮らそう: Bライフの愉しみ (ちくま文庫)』

意味の過剰 ―『日本社会がオウムを生んだ』を読んで  


前回の書評で、若者が多くオウムに惹きつけられた理由として「意味の欠如」ということを書いたが、逆に「意味の過剰」を抱えていたケースもある。以下は、井上嘉浩死刑囚が16歳の時に麻原に訴えた文言である。

自分自身が妬み、嫉み、いろいろなものを感じて自分自身が振る舞っているのが、ぼくは嫌でたまりません。自分自身が穢れていることを自分でじゅうぶん認識していて、自分のそういうものを木端微塵に壊したいです。(p.111)

意味はある。あるのだが、とても不快な意味である。その意味によって何もかもを解釈してしまう。つまり、意味の過剰。そういう意味の広がりの根源である自分自身を消去したい、真っ新になりたい、新しい意味の根源として生まれ変わりたい。

また、現代社会には大きな意味が欠如している代わりに、偽物の意味が溢れている。人の意図にまみれた人工的な装飾や、ヴァーチャルな世界が作り出す、意味の外形だけを象ったような、意味、意味、意味・・・。

つまり、不快な意味や虚構的な意味を持ち過ぎた人が、新たなマインドセットを希求する。これだけを聞くと、入信や出家の動機自体は極めて純粋だったように感じる。

しかし、この本の中でも、

集団のエネルギーに自己を預けちゃだめなんだよ。(p.211)

と書かれているが、いかに動機が純粋であったとしても、切実な問いを抱えた時に、どうして教主や宗教施設といったような、他人、環境、雰囲気、場の力といったものを求めてしまうのか・・・。しかも、半永久的に維持しなければならない関係を引き受けてまで。これが僕にはどうにもわからない。そこに甘えがあると自覚しないのだろうか。

世の中は、孤独に耐えられる人間ばかりじゃないんだ。(p.67)

とあったが、そういうことなのだろうか。

もちろん人と人とが影響を与え合うことはあるかもしれない。けれども、それは各人が独力で考え、生きてゆくためのきっかけにすぎない。それは瞬間的に響き合って、消えてゆくものである。




このエントリーをはてなブックマークに追加

category: 宗教
cm: --

Related Posts Plugin for WordPress, Blogger...

プロフィール

最新記事

最新コメント

著書

カレンダー

カテゴリ