寝太郎ブログ

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『農本主義が未来を耕す』宇根豊  


こんなかなしい表現があるだろうか。

相手を対象化するのではなく、同じ世界にいつも一緒に生きていた生きもの同士だったのに、その生きものが今はそこにいないのです。それまでの世界が欠けているのです。(p.80)

説明的で無機質な表現であるがゆえにより一層、かなしい。

他者を感じながら生きていれば、他者との別離は狂わんばかりにかなしい。独我論的に生きていれば、自分自身との別れが狂わんばかりにおそろしい。僕はこの二元論の間で、未だに中庸を取れずにいる。

さて『農本主義が未来を耕す』に見られる上記の文言は、人間との別離について語ったものではない。おたまじゃくしである。おたまじゃくしとの別れを嘆いて、「世界が欠けている」と言っているのである。

著者の理知的な語り口とは裏腹に、この本が一貫して主張しているのは、おたまじゃくしが死んで悲しむような、天地に対する情愛や没頭、一体化といった、捉え難く、語って伝えたところでなかなか説得力を持ちにくいところのものである。なぜなら、著書の中でもそのジレンマが告白されているが、「語る」ということはどうしても物事を外から見てしまうことであり、一方で、著者が伝えたいのはその体験の内部に身を置いて内側から見なければわからないことだからである。この点、瞑想技法を語って教えるときのジレンマにも似ているし、というか、生命の原理について語ろうとするときに必ず陥る困難である。ただ、自身、百姓にして農学博士という二重性を持つ著者は、それを「農の原理」と呼び、言葉を変えて繰り返し伝えようとしている。これは松田喜一『農魂と農法』からの孫引きであるが、

農作物が図抜けてよくできつつある。朝起きるとすぐに見に行く。今しがた見たばかりである。一時間や二時間の間にそう変わるものではないことは知りつつも、見に行く。夕方はいよいよ廻り道までして見に行く。このように農作物から魂を奪われ、朝は寝て居れないから早く起き、昼は暇がおしくて遊んで居れないから働く、何処に朝起きが辛いか、何処に働きが苦痛か、これらはみな目的物から心を奪われ、己を忘れて、相手本意になっておればこそである。(p.180)

諸々の農本主義者は、

・農の原理、自然への没入の尊重

・反近代化、反資本主義、反経済成長

・地域共同体や愛郷心を土台とした愛国心

において一致している。加えて、新しい農本主義者は、昔は当たり前すぎてその概念すら存在しなかった「自然」というものを外から見て、内と外を行き来し、それによって表現が可能となり、その価値を言い立てることができるようになった。いわく、

自然と人間の共同体の内からのまなざしで国家の有り様を問うことが、新しい農本主義者の仕事となるのです。(p.176)

感想を二つ。

・「農の原理」に包まれた世界を求めているのであれば、こういう本は予め読まないほうがいい。それは、瞑想の体験談を予め読まないほうがいいのと同じである。ただ、内からの体験と、外からの表現との両極を往来する決心が最初からあるなら、もってこいの本である。まさにそのことを「新しい」農本主義として定義しているからである。

・近代化にしても、経済成長にしても、理由なく始まったものではない。特に、国を脅かす「外部」の存在というものに一切触れられていない。もちろん一冊の本に何もかも書くことなど不可能なのだが、それがないとどうしても絵に描いたユートピアという印象になってしまう。




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category: 社会・経済
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