寝太郎ブログ

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自分のことを書く  


ひょんなことからゲストハウスの人(日本人)に僕のブログを認知されて、さっき「自分のことを書くのって恥ずかしくないすか?」と言われた。

「全然」と答えたが、たぶんこのあたりの感覚が僕は人とズレてるんだろうなと思う。他人のことを書くのはすごく気を遣うが、自分のことなら嫌な思いをするとしてもどうせ自分だけなので、書きたい放題である。

どうして自分のことを書くと恥ずかしいのだろうか。いまいちよくわからない。

「自分のことを書くのは難しい」ならわかる。それは、自分のことがよく理解できていないから難しいということではなくて、基本的に「自分のこと」なんて誰も興味が無いのであって、誰にも聞いてもらえないのであって、最初からハードルが高いのである。それでも読んでもらえるように書かなきゃならない。だから難しい。

僕はしばらく研究室にいたので、そもそも「自分のことを書く」ということを禁じられてすらいた。いかに一人称や内観に基づいた考察であっても、どこかで客観性、一般性、普遍性と繋がらないと価値が無いとされる。それもまあ、わかる。

あるいは、日常会話において自分のことを長々と話すのは迷惑だし鬱陶しい。文章として書いて公表して、読みたい人に読みたいときに読んでもらうのは、別にその種の迷惑はかからないはずであるが、とにかく「他の話が聞きたいのに鬱陶しい」という感覚は少しわかる。

けれども、これらはいずれも「恥ずかしい」という感覚とは異なる。恥ずかしいということは、普通「自分のこと」は隠すべきものであって、それを曝け出すと恥ずかしい、たぶんそんな意味なのだろう。だとすれば、僕がわからないのはこの「自分のことは隠すべきもの」という感覚なのだろう。

もちろん僕も自分について何から何まで公言したりしない。そんなことはする必要がないし、不可能なことである。だから選んで言う。言うということは、選ぶということである。選んでいるのだから、選ばなかったものもあるということ。

ということは、「自分のこと」の中で公言すべきこととすべきではないこととの取捨選択が、他人とはズレているという、ただそれだけのことなのかもしれない。

そういえば思い当たる節があって、僕は「他人のことはあまり興味が無い」とよく言うのだが、興味があるとすれば、究極的には「一人になった時に、たとえば夜、布団に包まった時に、どんなことを考えるか」というようなことであって、どうせそんな話は聞けないと諦めているから「他人に興味が無い」と言ってしまっているような気がする。




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category: 表現
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