寝太郎ブログ

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アニミズム  


散歩は林の中より都会のほうが捗る。僕の足は、舗装道路をリズムよく蹴って進むのを「散歩」として記憶してしまっている。

林に適しているのはどちらかというと、佇むという行為であるように思う。玄関から二、三メートルのところで、あるいは少し奥の方に入って、昼に、あるいは夜に、ただ立っている、あるいはただ座っている。

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僕はいわゆる「アニミズム」ないしは「汎心論」のようなものを多少信じているというか、そうであっても全然おかしくないなと思っているところがある。特に、少なくとも植物になんらかの意識があって然るべきなのではないかと思う。

僕の場合、それは、実感よりもまず理屈が先にある。

この物理世界の中に「変なもの」が二つあって、ひとつは生物の存在で、もうひとつは意識の存在である。植物に意識があると思うのは、その二つが部分的に重なっていると考えるよりも、完全に一致している、つまり、何らかの共通原因のもとで生まれたと考えたほうがシンプルだからである。

具体的に言えば、生物が動き始めた時、つまり動物が誕生した時に意識が生じたと考えるよりは、まず何らかの共通原因(それが意識そのものなのか全く別のものなのかわからない)があって、それが意識と共に真正細胞なりなんなりの原始的な生物を生んだと考えたほうがシンプルではないだろうか。

生物が誕生して、その後に意識が誕生したと考えるならば、二回も奇跡が起きなければならないのである。

乱暴な理屈だが、僕はずっとそんなふうに思っていた。(ちなみに、「この世にある変なもの」を「万物の存在」と「意識」と考えれば、全く同じ理屈によって、無機物まで含めた本当の「アニミズム」ないしは「汎心論」になる。)

だからと言って、木が切られるのを嫌がるとか、痛いとか、そういうことではないような気がする。それは単なる擬人化、擬動物化にすぎないわけで。

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それで、長時間自然に囲まれていると、その理屈を実感できるというか、「実感」というのは嘘くさい言葉だが、都会で動物(つまり人間)に囲まれているときは自分も動くことで意識存在を実感し、植物に囲まれているときは自分も動かないことで意識存在を実感する。

まあ、理屈を実感がなぞっているだけなのだと言われればそうかもしれないとも思うが。

そういうわけで、林の中ではテクテク歩き回るより、ただ彼方此方で座っていることのほうが多い。




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category: 小屋の日常
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