寝太郎ブログ

2月10日文庫本発売→『自作の小屋で暮らそう: Bライフの愉しみ (ちくま文庫)』

近況、人の役に立つこと、考えていることなど  


最近は家庭教師をやっていて小金が入ってくる。

前は高校の勉強で飯を食うなんて死んでも嫌だった。小さな安全領域に閉じ籠って生活を確保して余った時間で余暇を楽しむような生き方を軽蔑していた。けれども結局、高校数学なんかに頼って金を得ている。こんなことは18歳の時点で既にできたはずの生き方なのだが、一体何をやっているのかまったくわけがわからない。

出てゆくほうは食費のみである。普通にご飯炊いたりもしてるし、ほとんど無料に近い値段で買える小麦粉を適当にこねて熱を加えると何かしら食べられるものができる。小麦粉を手にした最初の頃に作ったクッキーを香港人のゲストに「ひとついかが?」と言ったら、困惑した表情で「今おなかいっぱいなの、ありがとう」とやんわり拒否された。

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自分はこれっぽっちも他人のことを考えてこなかった。自分のことばかりを考え、自分勝手に生きてきた。人に与えられるばかりで与えてこなかった。人の役に立つことをしてこなかった。ずっとそう思っていた。

けれども最近人と会ったりしたことがきっかけで、「んなわけあるか」と思った。人ひとり何十年も生きていて、誰にも何も与えていないなどということが、あるわけがない。直接の原因は、読者さんの一人が「本を読んで『生きなきゃ』と思いました」と言ってくださったことである。自分のことばかり考え、自分勝手に生きてきたことについて、自分のためだけに書いた本を読んで、そのように言ってくださった。

その瞬間に誰かの役に立ったか立たないかということは表面的なことでしかない。ましてや、自分が把握できている限りの「人に与えた」とか「人の役に立った」とかいうのは本当に表面的なことである。この行為が何の役に立つとか、社会のためになっているかどうかとか、そんなことは本人が頭で考えたり、予め意図してやることではない。人を幸せにできるような本を書くとか、貧しい地域に学校を建てるとか、社会貢献するとか、直接的に誰かを助けるとか、そういうことではない。

そうではなくて、自分の身体と、魂と、経験と、記憶と、学習と、そういうもので構成されている自分の生というものを世の中に放り込む、つまり、自分のために精一杯考え、生き、他者に伝えるということだろう。それは何か大きなことをすることではないし、特別な方法で発信することでもない。ただ考えること、ただ生きること、ただ人の目や耳にふれること。自分がすべきことをすること。健全な社会の定義に「個人の自由」が含まれるべきなのも、そうしたダイナミズムを阻害しないためだろうと思う。そうしてそれが、受け入れられるかもしれないし、受け入れられないかもしれない。受け入れられなかったら、残念でした。けれども、「受け入れられなかった」という意味で人の役には立っている。

最近会った人の多くは、概して、何らかの理由で親族と疎遠な状態にあり、また社会に完全に染まれるわけでもなく、それでも何とか生きてゆく手段を探っているという人ばかりである。別に人と会って話して自分の問いに対して何か具体的な答えが得られるわけではないが、とにかく純粋さに胸がすっとする。齢三十を過ぎるとだんだん、人を見るときに、その人が何ができるとか、何を持っているかとか、どんな能力があるとかいうよりも、純粋さや、誠実さ、その人の経てきた苦労など、そういうもののほうに圧倒的に魅力を感じるようになる。

それから、依然として、どこでどうやって生きてゆけばいいか考えている。

海外にはもう、あまり興味が無い。大人になってからは、いわゆる旅というものそのものを楽しんだことは一度もない気がする。僕にとって海外とか、海外のゲストハウス暮らしというのは、何となく人に囲まれながらも一人でいられる手段でしかなく、つまり日常生活空間と内的思考空間とを分離できるということで、それは主として日常生活に使う言語(英語)と、思考の言語(日本語)とをきれいに分けられるということに由来している。けれども、今さらだが、そういうのはとても疲れるし、だんだん現実感が薄れてゆくので精神的にも良くない。環境に逆らって生きたり考えたりするのはエネルギーを使う。外的環境というものは、やはり、内的世界に適合しているにこしたことはない。

小屋も、ずっといる気にはならない。一人の小屋暮らしは、外的世界と内的世界を分離するのではなく、むしろ内的世界でもって外的世界を呑み込んでしまうような、そういう印象である。前も全く同じことを書いたが、小屋の生活は快適そのもので、小屋の生活水準自体を嫌だと思ったことはただの一度もないが、自分の最初の数年間みたいに延々と小屋に一人でいるのは違うと思ったし、他人にもお薦めしない。一人でいる時間が長いと、自分の内的世界というものが肥大しすぎて、なかなか自分の頭の中から出られなくなり、いざ人や社会の中に戻ろうとしたときに混乱する。

それで、どうしようか。どうやって生きてゆこうか。よくわからない。




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