寝太郎ブログ

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実践と思想 福岡正信『無 自然農法』を読んで  



『わら一本の革命』は読んだことがあるが、こちら『無』は初めて。全三巻1000ページに及ぶ大著だが、著者が繰り返し言っていることは以下のように集約されて、いくつかの留保を除けば、それらはその通りなのだろうなと思う。

・価値があると喜んでいるものは、予め人間が、それが必要になるような条件を作っているにすぎない。肥料然り、農薬然り、機械然り。

・人間の微視的で短期的な分別知に基づいた人為の介入は、やればやるほどしなければならないことが多くなるだけであり、無限に苦労が増大する。肥料然り、農薬然り、機械然り。

いくつかの留保というのは、

・人口が既に爆発してしまっているという事実。短期的な収量に拘らざるを得ず、ハイスピードの自転車操業を免れない。

・何億年もかけて作ってきた原油がリッターわずか100円足らずで購入されている。この石油価格の安さにより、科学農法と自然農法を比べて、個人の収支としては単純にプラスマイナスゼロにはならない。極端に言えば自分の家に油田があればそれを使ったほうがお得なわけで、全世界がそれに近い状態にある。

・弱体化した作物を挙げるまでもなく、農耕(強制的、排他的、単一的、反復的、保護的な栽培)は既に野草採集ではない、つまり自然ではないので、自然と全く同じでいいわけがない。その微妙なバランス、線引きの問題。

極論であるはずの「無価値」「無分別」「無為」を強調しすぎていて、こういう現実的な問題に全く触れられていないが、あれもこれも考慮しているとつまらない本になるし、力強い思想書としては極論ないし理想論でいいのかもしれない。

それより気になったのは、自然農法がそれより大きな哲学ないし世界観に支えられているような雰囲気で書かれているが、実際は明らかに逆で、著者には農業、特に自然農法という核がまず最初にあって、本来その狭い分野でしか通用しないことを、まるで普遍的であるかのように拡大しているにすぎないということ。古今東西の哲学に触れられているが、あらゆることを自分のテリトリーである農耕に関連付けて解釈するので、誤解も多い。

例を挙げればきりがなく、価値について、分別知について、人知無用論について、時空の概念について、全部そうなのだが、たとえば因果関係について。著者は短期的な因果関係の存在を認めた上で、長期的に見るとわけがわからなくなると言っている。確かにその通りだが、だからと言って、いきなり無因果となるわけではない。農耕をうまく遂行するためには、短期的な因果関係に基づいて解決策を見出してはならない、たとえばある虫が葉を食べるからと言ってそれを農薬で除去すればいい、あるいは何かの養分が足りないから足せばいいという問題ではない、というだけのことである。これは哲学でも世界観でも何でもなくて、非常に実務的な頭の働かせ方である。

立体的有機的因果関係というのは、換言すると、部分的に見れば原因や結果があって、全体的に見れば原因も結果もないというのと同じである。つかみどころがないから、対策も立たないはずである。自然には因果はない。本来、自然には始めも終わりもなく、一も二もなく、原因もなく結果もない。因果は存在しないのである。(Ⅲ、p.75)

「自然」という言葉が何をどこまで意味するのかわからないが、非常に乱暴な論の進め方である。それというのも、やはり、殺虫剤を使って害虫とされている虫を殺してよしとする科学農法に対するアンチテーゼとしての自然農法というものが常に頭にあるからだろう。微視的・短期的・分析的な科学の手法は農業では通用しない、生き物の世界はそんなに単純ではない、ただそう言えばいいだけのことである。

あるいは、以下のような問答がある。

「近代農法に対抗して自然農法(無為の農法)が成り立つということは、科学的な知恵によって造り出された、肥料、農薬、大農具が無価値であることを実証したことになる。すなわち人知が造りだした価値ある物が、やり方次第では無価値になるということは、逆に言えば人知の無価値であり、人知無用論が成り立つことになる。」

「農業以外においても、同じことが言えるであろうか?」

「すべての事柄においても同じである。・・・では、この世の森羅万象一切の事物は無価値であるかと言うと、そうではない。・・・人知や人為を放棄したところに実在する、一見無表情に見える自然の実有の世界は価値高き世界である。」(Ⅰ、p.99)

さてここで、価値とは何かと問われれば、自然的であることと答えるだろうし、自然的なるものがなぜ価値があるかと言えば、結局のところ、そのほうが持続的に農耕を営むことができるから、ということになるだろう。堂々巡りなのである。自然的なるものに捉われすぎて、非自然的なるものが見えなくなる。そうなってしまうくらいならば農業はおろか、自然的な生活など御免である。

何かを実践・行動している人の思想というのは、その実践を核として語るがゆえに、ある角度からの真実しか見ていない。本書の著者であれば、持続的な農の営みを成功させる、という目的で思考が閉じてしまっている。確かに目的や、主張すべき核となる物事があれば、それを肯定するための知識を芋づる式に獲得してゆくことはできる。けれども、それは真理とは無関係であるし、教養とも言わない気がする。

自然農法自体の良し悪しの判断は僕にはできないが(個人的な感想を言えば、有機農法と自然農法の中間くらいが適切な線の引き方なのではと思う)、それ以外の大部分は、すごい無駄なものを大量に読まされたという気持ちである。

繰り返すと、著者はまるで、この世界の真理や原理から自然農法を導き出しているように書いているが、何のことはない、自然農法という色眼鏡でこの世界を見ているだけである。著者は思想家ではなく実務家である。健康な稲を育てて、それを見ながら与太話をしていた好々爺である。




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category: 農業
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コメント


寝太郎さんのこういう情け容赦無いところが読んでいて楽しいです。
福岡正信さんはかなり有名な人ですし、自分の考えをミームとして広めるために極論を上手く利用して成功した人って事になるんですかね。

千葉県民 #CGSys/Bo | URL
2017/06/21 02:01 | edit



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