寝太郎ブログ

2月10日文庫本発売→『自作の小屋で暮らそう: Bライフの愉しみ (ちくま文庫)』

仏教経済学  


現代工業文明の在り方に対する批判の基本構造は、石油危機と前後して上梓された『成長の限界』(1972)や『沈黙の春』(1974)の頃から現代まで変わっていないように思える。変わったのは、その内容が着々と現実化されてきたという事実のみである。

日本では『成長の限界』や『沈黙の春』ほど有名ではないものの、1973年出版でベストセラーとなった『スモールイズビューティフル』もそうした論調の一端を担うものであり、類書と比べてより人間の内面に目が向けられている。

以下のような考え方は大なり小なり支持されている。

世界がもっと豊かになるまで、貪欲さを動力源とした経済成長は必要悪であり、富が全体へ行き渡った暁には人びとは善人となり平和さえも達成される。

『スモールイズビューティフル』の著者シューマッハいわく、このようなケインズ流の主張には大きく三つの無理がある。

根本の問題は、「自然」という地球規模で見れば替えの効かない資本が、金さえあればいくらでも使うことができる所得と勘違いされ、食いつぶされ、使い捨てられているということである。つまり、一つは現代文明が依って立つところの化石燃料の浪費であり、いま一つはあらゆる文明が依って立つところの自然環境の破壊である。

人間が自然界に依存している事実の無視が、経済学の方法論に内在した性格である。(p.58)

現代経済学では、その方法論が金で表した価格によってすべてのものを同一化し、数量化するものである以上、再生可能の物質と再生不能の物質とを区別しない。・・・その結果、燃料の間の唯一の違いは一単位当たりの相対コストだけになる。(p.77)

しかも、それらの問題を再び生産性を上げることによって、あるいは予算を投じることによって、解決しようと試みている点である。

さらにもう一つ、重要な土台が食いつぶされようとしている。「人間性」である。平和を達成するためといいながら、経済成長のために貪欲や利己心、嫉妬心といった、知性や幸福や平静を損ない、最終的には平和を好む心を殺してしまうような衝動を煽り、掻き立てているのは本末転倒である。

現代経済学ではそれを実行する人に利益があるかどうかというたった一つの側面しか問題にせず、自分以外に対する責任を免除されている。したがって、ある行為によって環境が台無しになっても、その行為は「経済的である」とされる。また、労働はコストの一つに過ぎないとされ、オートメーションや極端な分業によって「コスト削減」の対象になる。結果、人間は機械の奴隷となり、労働は無意味で退屈で、人間らしさを奪うようなものになる。

仏教的な観点から言えば、「文明の核心は欲望を増長することではなく、人間性を純化することにある(p.72)」のであり、そしてそれは仕事を通じて達成される。

人間は仕事がまったく見つからないと、絶望に陥るが、それは単に収入がなくなるからではなくて、規律正しい仕事だけが持っている、人間を豊かにし活力を与える要素が失われてしまうのが原因である。

たとえば、「人間の技能と能力を高める機械化」と「人間の仕事を機械という奴隷に引き渡し、人間をその奴隷への奉仕者にしてしまう機械化」とは明確に区別されなければならない。後者は暴力的なものであり、したがって

仏教経済学の基調は、簡素と非暴力である。(p.74)

この「簡素」と「非暴力」とは深く関係している。というのも、有限な環境の中で「自分の必要をわずかな資源で満たす人たちは、これをたくさん使う人たちよりも相争うことが少ないのは理の当然(p.76)」だからである。物質世界が有限であるかぎり、無限の欲望が満たされることは永遠にない。有限な環境の中で無限の成長はありえない。

大地は一人ひとりの必要を満たすだけのものは与えてくれるが、貪欲は満たしてくれない。(M.Gandhi)





このエントリーをはてなブックマークに追加

category: 社会・経済

Related Posts Plugin for WordPress, Blogger...

『日本の七大思想家』小浜逸郎  


41QrIEon5YL3.jpg日本の七大思想家 丸山眞男/吉本隆明/時枝誠記/大森荘蔵/小林秀雄/和辻哲郎/福澤諭吉 (幻冬舎新書)

「日本の七大思想家」の一人に哲学者の大森荘蔵がピックアップされている。「意識」や「時間」といったような「ザ・哲学」的な主題に終始した大森が一般書において言及されるのは極めて珍しく、どんなふうに書かれているのか興味があった。

ちなみに僕は、「哲学に興味があるのだが、何か読みやすい入門書を紹介してほしい」と言われたらだいたい大森の『流れとよどみ―哲学断章』を薦める。哲学の基本的なテーマがエッセイのような雰囲気で並んでおり、なおかつ、哲学に生き方や人間臭さを求める人とそうでない人を大別するための踏み絵にもなるからである。小浜も曰く、

現代の哲学も・・・「何が善であるか」「人はどう生きるべきか」といった倫理学的な主題については、極力禁欲を決め込むようになった。・・・大森哲学も、もっぱらこの世界がどうなっているかを極めようとする情熱のみによって成り立っていると言っても過言ではない。(p.213)

さて本書の大森の項で扱われているのは、「主客二元論克服への情熱」である。主客二元論とは、簡単に言うと、この世界を精神(認識する主観)と物体(認識される客観)との二つに分ける世界像のことである。デカルトの心身問題をはじめとして、精神と物体の両者がどうやって関係しうるのかというような問いは、当然、主客二元論という世界像を前提としている。また、現代の文明人が多かれ少なかれ当然のものと感じている世界像でもある。

大森はそのような二元論に対して否と言い続けてきた。それは現代人から「自然を活き活きと感じ、自分をその一部として感じる、あの感性を奪った」とさえ言う。

主客二元論に対する大森の代案は、我々が「主観」だとしてきた心的性質が、実は客観的な性質としてそこにあるのだ、とするものである。たとえば、富士山を見たときの我々の知覚像は、光波や脳細胞興奮が原因となって生じるものではなく、富士山という自然そのものが持っている心的性質である、といった具合である。

陰鬱な空とか、陽気な庭とかいうとき、陰鬱や陽気は私の「心の状態」ではなく、空自身の、庭自身の性質なのである。(p.234、『知の構築とその呪縛』より孫引き)

大森の主張が哲学全体の歴史から言ってどれだけオリジナリティのあるものなのか、また、それがデカルト的な心身問題に対してどれほど有効に機能するか、無論いくらでも疑義を差し挟むことはできる。本書で小浜が「大森哲学の根本的な欠陥」と指摘しているのは、「他人の痛みを自分が感じることはできない」というような、大森自身が「鉄壁の孤独」と形容した、「独我論的思考様式」である。

独我論的な把握から人間理解を出発させる方法は、・・・「心」を問題とするときに、人と人との間に起きる相互作用の現象としてそれを扱うことができず、常に「自然」との関係に限定してしか論じることができない。(p.277)

確かにその通りだと思うのだが、しかしこの「欠陥」が、それまで紙幅を割いてきた大森の主張のどこにどんな問題をもたらすのか一切書かれていないので、若干拍子抜けというか、ざっくりとした文学的感想に留まっている感がある。

いずれにしてもそうした「独我論的思考様式」に相対するものとして、小林秀雄を挟んで二つ後の章で和辻哲郎が取り上げられている。和辻の哲学は、個人意識をその出発点において人間を把握しようとする西洋哲学に対して、

「人間(じんかん)」すなわち「ひと」同士の「間柄」を出発点として、その間柄における相互の「実践的行為的連関」を原理とする。(p.354)

こうした日本的な人間把握の応用として、たとえば当ブログとの関連で言えば、今日「贈与経済」と呼ばれている類のものについて日本ではかなり早い段階で言説化しているのも和辻である。

「欲望充足を目的とする私的経済人」という近代西洋の発想になる経済学的仮定から経済的組織を論じることは、特殊な歴史的社会的事情から発したものであり、経済組織に本来備わっている人倫性の事実を見ようとしない偏頗なものである(p.401)

それにしても、和辻はまだしも、大森がこのラインナップの一角を占めているのは本当に異様な光景であった。このような並びはもう金輪際お目にかかれないだろう。




このエントリーをはてなブックマークに追加

category: 書評その他

Related Posts Plugin for WordPress, Blogger...

プロフィール

最新記事

著書

カレンダー

カテゴリ