寝太郎ブログ

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悟りなんて  


6月に、ヴィパッサナー瞑想合宿(ゴエンカ式の10daysコース)に参加した。

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神奈川から千葉まで桑の実をつまみながら歩いて行ったのだが、道すがらずっと、瞑想センターに辿り着く直前まで、参加すべきかどうか迷っていた。やっぱり引き返そうかと何度も思った。

というのも、「瞑想合宿」というものは、そこに設備があって、先生がいて、一緒に瞑想する仲間がいて、日常から超越したある種の「雰囲気」がつくられている。それは一つの「他者依存」ないしは「環境依存」である。それによって得られた能力は、自分由来のものではなく他律的に得られた力であって、自分に何の矜持も自信ももたらしてくれない。またそれによってもしも何か大きく自分が変わったとすれば、それが良いことであれ、とても恥ずかしいことであると感じる。一言で言うと「他律的に変わってしまう」のが嫌だった。合宿でできることは、一人でもできるはずなのだ。

結局、参加はしたのだが、「苦悩の原因は自我である。だから自我を消せばよい」という考え方があまりに短絡的に思えた。思うに、「苦悩からの解放」に重きが置かれすぎなのだ。「幸福病」なのだ。

確かに、自我を消して嫌悪も渇望もしなければ苦悩は消えるかもしれない。それはあたりまえである。でもそれでいいのだろうか。それが人間のあるべき姿なのだろうか。苦しんでもやるべきことというのは、この世界には無いのだろうか。自我を消して心が平穏になるならば、昆虫の心はさぞかし平穏だろうと思うが、それを難しくさせている人間の性質というものの存在意義を考える必要はないのだろうか。

苦悩から逃れたい、幸せになりたい、解脱したい、だけでは、それは自分の人生と言えない。それが自分の人生でないとすれば、苦悩から逃れようが、幸せになろうが、何の意味もない。だから僕は、自分が一歩一歩自分の人生を歩むこと以外によって、自分が不連続的に変わりたいとは思わない。悟りを目的として修行することも間違っていると思う。そうした幸せになるための「奇跡的な手段」にも憧れない。そういう不連続的な過程を経て「悟った」人間も、それが表面的にどんな人格者であれ尊敬しない。

ただ、瞑想という行為それ自体には、実践的な意味において、大変感銘を受けた。ヴィパッサナー瞑想が謳っているような理論的な因果関係がそこに存在するとは未だに信じていないが(これは書くと長くなる)、とにかくとても良いものだと感じた。

ヴィパッサナー瞑想とは、実践的には「心を今この瞬間の現実にとどめる訓練」である。僕らは常日頃から、目の前の現実を越えて、いろいろと空想したり、後悔したり、不安になったり、そんなことばかりしている。だから、一切のコミュニケーションを断ち、自らの肉体的な感覚(ゴエンカ式は感覚に集中する)という現在のリアルな現実だけに頭を戻すということによって、様々な恩恵が得られる。これは事実であると思う。この瞑想の実践的な恩恵と、ヴィパッサナーの理論・思想的な背景とは別のものである。

ゴエンカ式ヴィパッサナーの理論の概略は以下のようなものである。あらゆる精神的な汚濁は、絶え間なく肉体的な感覚として表面に浮き上がってきている。それは意識的に気付くような大きな感覚から、無意識のレベルでの小さな感覚まで、多種多様である。私たちはその全ての感覚に気付くように訓練し、またそれらの感覚に対して「反応しないでただ観察する」ように訓練することで、精神的な汚濁は行き場を無くし、消滅する。通常私たちは、感覚が不快であれば嫌悪を、快であれば渇望を生み出し、将来の自分を縛ってゆく。しかし、反応をやめることで、そうして心の縛り目を増やしてゆく連鎖にストップをかける。現在のサンカーラ(反応)を根絶やしにすると、今度は過去の汚濁が表面に浮き上がってくる。過去の汚濁も同様のプロセスによって浄化される。そしてゆくゆくは、全ての汚濁が浄化され、苦悩から解放される。ただ、僕自身はこのプロセスを文字通りに信じているわけではない。

ちなみに、自分でも先生に質問したのだが、このメソッドによれば、具体的にどんな心の汚濁が浄化されたのか、自分ではわからない。インターネット上の体験談や、あるいは終了後の参加者の感想などを聞いていると、「過去の思い出が芋づる式に掘り起こされて、全てが明瞭な因果関係の下に繋がっていった」というようなのがあるが、これはヴィパッサナーとしては明らかに間違っている。僕らが処理すべきなのは肉体感覚だけで、それがどういう記憶に由来したものかは、基本的にわからない。言い方は悪いが、そういう意味では、とてもつまらない瞑想法である。自分は「心の浄化」それ自体が目的ではなく、ただ単に自分のことを知りたいだけなので、もっと記憶と直接的に対峙できるような瞑想法を好む。

来週後半から、タイのお寺で瞑想をしながら滞在する。瞑想というものを自分なりにアレンジ・解釈して、これからも付き合ってゆきたい。




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category: 瞑想

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