寝太郎ブログ

2月10日文庫本発売→『自作の小屋で暮らそう: Bライフの愉しみ (ちくま文庫)』

仏教は何も教えてくれない  


山下良道の「雲としての私」と「青空としての私」という概念がある(参考『青空としてのわたし』)。「雲」というのは現世的な物語、価値判断、煩悩、人としての特徴などのあれやこれやで、しかしその雲を取り除いていってもやはり「私」があって、それが「青空」と表現されている。「青空」は哲学で言う「実存」の概念に近いが、「実存」のほうは文脈によって多様な意味を持つので、「青空」というのはとてもわかりやすい言葉だと思う。この記事はこれらの概念に対する批判ではないが、タームとして便利なので使わせていただく。

仏教の問題意識、克服すべき課題というのは徹底して「雲」のほうに向けられていて、雲はまさにあのとおり生じては形を変えて消えてゆくような無常なものですよ、自分と雲とを同一視してはダメですよ、というのが仏教の基本的な教えだと思う。

一方「青空」のほうはほとんどノータッチで無条件に崇め奉られているのだが、僕は本質的な問題(世界がどうなっているかという問題と生きる上での問題と両方)は「青空」のほうにあると思う。なぜなら、「死」というのは「雲」の対極にあるものではなく「青空」の対極にあるものだからである。「雲」が無くなるということが耐えられないのではなく、何もないはずの「青空」がさらに何もなくなるのが耐えられないのである。

もちろん、この考えが矛盾を含んでいるのはわかっている。「雲」の外に出ることはできても「青空」の外に出る(=死を思う)ことはできないからである。出たと思っても、意識して考えている限り、やはりそこは依然として「青空」なのだ。しかし、それでも、出てしまう、考えられないはずの「真の無」というものを考えてしまう、それが人間である。だから『〈仏教3.0〉を哲学する』にあるように、「実は人は死ねないのだ」というような納得の仕方は理屈としてはわかるけれども僕には(今のところ)できない。

個人的なことを言えば、幼いころに「死の観念」に思い至って以来、その「死の観念」の対極にある「私」、すなわち「青空としての私」というものは全く変わらない。それ以前の「自我」ははっきりしなくて、そのときそのときの断片的な記憶があるだけで、まさに「変わる」とはああいうことを言うのだろう。だから「死の観念」と「青空としての私」というのはセットなのだ。もちろん僕には「雲」が「青空」を覆うくらいたくさんあるし、それによって悩んだり成長したり大人になったり変わったりする。つまり自分の「青空」に流れている「雲」に関して達観しているわけでも何でもないが、究極的には「雲としての私」の問題なんてどうでもいい。根本のところで昔のまま変わっていない自我、自分にとってそれこそが「自我」であり、そこにこそもっとずっと深刻な問題があるのであって、仏教における「雲としての私」に関する無我や無常の教えなどは、まあその通りだけど、というくらいのものである。むしろその「深刻な問題」にとっては、一番単純な意味での煩悩や執着心が救いになったりもする。

「雲」はとても良い形をしている時もあれば、悪い形をしている時もある。悪い形をしている時、これを消去してしまいたいという感情が、ときとして自らを観念的ないしは肉体的に「死」に接近させることがある。しかしそれは全くの錯誤であって、雲を除けば青空があり、死というのはさらにその青空の対極にある。だから、自己消去的な感情に襲われた人はまず、死ではなく青空へと、実存へと、生そのものへと向かうべきである。青空になったら人生の悲喜交々も無くなってしまうではないかと案ずることはなく、依然として雲はあったりなかったりする。だから、青空へと向かうことによって何かを失うことはない。

雲が消えることと青空が消えることの区別がつかないような状態は、主として、雲と青空とを混同してしまっていることによるのであって、これは確かに仏教の否とするところであるし、特に現代においては意味のある教えだろうと思う。ところが、釈迦が四苦、すなわち「生老病死」などというときの「死」はまさにその錯誤としての、現世的な苦としての「死」しか扱っていないように思える。だからいとも簡単に「わが解脱は不動であって、これが最後の生であり、もはや再生することはない」などということが絶対善として挙げられていて、肝心の「真の無」については一言たりとも言及されない。換言すれば、確かに「青空へと向かうことによって何かを失うことはない」のだが、これは「青空に気付くことで全てを失う」ことと背中合わせなのだ。

結局、仏教は何も答えてくれないのである。




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しあわせ  


僕はもう十分に幸せな時間を過ごしたし、それを思い出せば何度でも幸せになれるし、この先は幸せ自体を追い求めることなく、偶然出会う小さな幸せに立ち止まれるだけの時間があればそれでいい。

予定調和的な幸せは要らないし、幼年時代の時間の流れを無理に模倣するような幸せも要らない。何か別の文脈の中で、ときに幸せだったり不幸せだったりすればそれでいい。

この水準の生活をしている限り食いっぱぐれることはないだろうし、あとは、自分が本当に関心があることについて、あらゆる手段で以って勉強したり感じたり提言したりしてゆければそれでいい。つまり、死と孤独の問題に時間を使えればそれでいい。




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