寝太郎ブログ

2月10日文庫本発売→『自作の小屋で暮らそう: Bライフの愉しみ (ちくま文庫)』

自我が幻想ってどういうこと  


このコメントがズバリ、仏教関係の本によく書いてある謎の主張そのものです。

>確固たる信頼を持って感じていた「私は私である」という感覚自体が、立脚点が無く信用するに値しないあいまいな空想にすぎなかった、と理解可能だとすればどうでしょうか?
>「実は自我が無い」というのは、正確には「自我と呼んでいた感覚は空想にすぎなかったと理解した」ということで、"呼んでいた感覚"そのものは依然としてあるわけです。幻想だと理解しつつも存在する。その"呼んでいた感覚"を無くすことができると。

「自我を消すことができる」というだけでなく、「実は、今現在感じている自我も幻想(空想、勘違い、言い方は何でもいいですが)に過ぎない」ということを彼らは言います。僕にはこの文章は、賛成反対の前に意味がわからないわけです(したがって反対です)。

「ラーメンがあると思ったら幻想だった」これはわかります。実はラーメンは無かった。ラーメンがあると思った知覚、感覚、判断が間違いだったということです。

でも、「自我」って、自分が感じている感覚そのものでしょう。ですから、そう感じているか否かが全てです。感じているにもかかわらず、「実は、存在しない」とか「実は、幻想だった」とか、意味が分かりません。

まあ、別にそういう思想的立場が存在しないわけではないです。今すぐ結論が出るような話でもありません。しかし、僕が言いたいのは、もしも自我の存在・非存在を真剣に問うているならば、もっと考えるべきことがたくさんあるだろうということです。そういう可能性に思い至らない・思い悩まないということは、彼らにとっては真理などどうでもよく、何らかの目的の踏み台にするためにある一つの考え方をほとんど盲目的にとっているのだと、そう思わざるを得ません。

それは、「万物は移り変わるのです」という主張にしてもそうですし、「自由なんてありません、ただ物事が起こっていくだけなのです」という主張にしてもそうです。そんな簡単な話じゃありません。もちろん「分子原子レベルまで感覚を研ぎ澄ましてお悟りになられたのです」などという脅し文句は論外です。生き方の基盤にしている事実・真理が根拠薄弱・子供騙しなのです。

自分にとって「自我」というのは非常に大きな問題です。「自我」があらゆる苦悩の根源であることなんて寝小便をしていた頃から知っています。ですから、「実は自我なんて存在しないんですよ~、それを悟れば解放されますよ~」みたいな主張は聞き捨てなりません。




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「頭で考えるな、体で知れ」にゲンナリ  


僕が何か仏教的な「自我」について考えたり言葉にしたりしようとすると、決まって「あなたは頭で考えているからわからないんですよ、端的に実践を通して体で知るべきですよ」「真実を直接に体験することですよ」みたいなことを言う人がいます。

どんな関連書籍を読み進めていても尽くそう書いてありますし、僕が国内外で出会った瞑想好きの人もそうでした。コメントでも以下の通りです(わかりやすかったので取り上げているだけで、書いた本人に対する嫌悪感情があるわけではありません)。

>普通に暮らしていても理解できなくて当然だと思います。ブッダは瞑想で実体験したことしか話していません。だから原始仏教は自分も徹底して肉体的な経験を平静かつ客観的に見つめることでようやく理解可能になります。本を読んだり思索をするのみで先人が言っていることを理解するのは無理です。
>実際、私も初めは疑いを持っていましたけど、正しい方法で続けたら誰でもきっと理解できると思いますよ。繰り返しますが、肉体的に経験しないと本当の理解はできません。

瞑想コースのレクチャーでも、

瞑想は哲学のような知的娯楽ではありません

としつこく明言していました。この言い方一つとっても、「頭での理解」に対する蔑視ないしは軽視を感じるわけです。

確かに言ってることはわかります。体験しないとわからないことがあるのはわかります。しかし、相互理解をそこで終わらせてしまう一刀両断にゲンナリします。人がどうにかして知ろうとする努力をバッサリ切り捨てるようなあの「体験主義」みたいなのはどうにかならないのかなと思います。

僕は自分自身が変わりたいと思っているわけではなく、ただ単に全てのことを知りたいと思っているだけです。そう言うと、自分自身が変わらない限り知ることはできない、といういたちごっこです。

仏陀は何十年修行したとか、感覚を原子レベルまで研ぎ澄まして全身で悟ったのだとか、そんなことを言われても何の説得力も無いわけです。そんなのは「勘違いじゃないの?」と言われて終わりです。そういう権威付けではなく、やはり他人に伝えようとしている限り、言葉を尽くさなければいけないと思うのです。

入り口は言葉であっても、本気で理解しようとしている人は、一種の仮想体験を通じて知ろうとします。僕が体験主義者に対して言いたいのは一つで、人間の想像力をみくびるな、ということです。


それで、実践を強調してくる人は往々にして、僕が「自我」について言っていることに関して致命的な誤解を伴います。

僕はまず、エゴや煩悩を排してゆき、目的や欲望を捨て、外界との垣根を取り除き、「悟り」と言われる状態に至ったとしても、形而上学的な自我、つまり端的に「私」という感覚は残ると思います。しかし、これについては、僕自身が実践して悟ったわけではないですから、それはアナタがまだ知らないだけだと言われれば反論のしようがないです。

そうではなくて、僕が「自我」について言っているのはもっとシンプルなことです。仮に、悟りの状態で一切の自我が失われるとします。「失われる」と言うことは、最初はあったわけです。普通の人間には自我があるわけです。もしも煩悩を持った人が「私は私である」という感覚を持っているのなら、それは端的に人間には「自我」があるということです。それを「実は私なんてものは存在しないのだ」という言い方をするのが全く意味が分からないのです。ただ単に、煩悩がある時は自我があるし、煩悩がない時は自我がないというだけのことです。「実は存在しない」のではなく修行やらなんやらによって「存在したものを消した」だけのことです。

そう言っても必ず「自我が無いという真実は、体験しなければわからないんですよ」と返ってきます。会話が成立しません。「自我を無くすことができる」のと「実は自我が無い」の違いがわからない人たちです。

「自我を無くすことができる」のであれば、あとはただ単に選択の問題になってきます。無くすべきか、携えるべきか。仏教ではとかく自我のマイナスの要素ばかりに注目しがちですが、もしかしたら自我こそがこの世界の究極の目的かもしれませんし、わかりません。もちろん、「苦悩からの解放」を目的に考えるのなら選択は簡単ですが。

しかし、「実は自我が無い」となると、選択もなにもなくなります。単なる幻影である自我を追っ払うのが「真実への道」となるわけです。正解は自我を無くす道にしかないということになります。しかしこれは詭弁です。なぜって、自我は存在するのですから。

体験主義者は、この二つのことがごちゃごちゃになっていることが多いです。ただ単に自我-非自我の一方の極を体験しようとしているだけなのに、いつのまにか「真実を体験する」に置き換わってしまうわけです。もしかしたら、ただ単に自由や幸福を追求しているだけだと足元がふらつくので、「真実」による正当化の後押しを必要としているのかもしれません。




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