寝太郎ブログ

2月10日文庫本発売→『自作の小屋で暮らそう: Bライフの愉しみ (ちくま文庫)』

発言における自己同一性の重要性  


発言というのは事実上、そのほとんどが評価や解釈や物語から構成されている。知識や事実に言及しているように見えても、ほとんどの場合その真偽は確認できないのであって、その知識や事実の使用にも発言者の評価や解釈や物語が反映されている。そして、評価や解釈や物語というのは、評価者や解釈者や物語の語り手の知識や価値観、物語の描き方に本質的に左右される。

つまり、「彼は素晴らしい/ろくでもない」「彼はこういう人間なのだ」「彼はこういう目的で行動しているのだ」などと言った、評価、解釈、物語に関する発言は、「自分にとってそう見えているだけ」という決定的な反論の可能性を常に内包していることになる。

したがって、発言を説得的なものにするためには、「自分にとってそう見えているだけではない」ということを明らかにするためにその努力の九割九分九厘が割かれなければならない。そしてそれは本来は、言葉を尽くすことによって為されねばならない。

ところが、純粋数学のような本当にごく一部の分野を除いて、どんなに小さな主張であっても、「自分にとってそう見えているだけではない」ということを本気で説明しようとしていると、一冊の本になってしまう。

そこで重要なのが、自己同一性・アイデンティティである。つまり、その人のそれ以外の言論や、その人のバックグラウンドとどのように繋がっているのか紐付けされるようにしておかねばならない。前の発言と今の発言が同一人物であることをはっきりさせるということが最低限の必要条件なのである。

そのためには、実名やプライベートや身体を晒す必要は必ずしも無い。実名を晒すということは、自己同一性を確保するためのごく簡単な方法の一例に過ぎない。たとえばブログのような媒体で、言葉を積み重ねていくだけで充分である。

芸術は違う。芸術は「私にとってはこう見えるのだ」ということを存分に垂れ流してよい、むしろ垂れ流せば垂れ流すほど価値があるとされる場所である。居酒屋の酔っ払いの会話も違うし、何らかの現実的な活動のための発言も違う。それらの言葉は人の心身を動かすためだけに放たれる。

繰り返すように、もし自己同一性を確保しないのならば一つの発言で言葉を尽くすべきだし、言葉を尽くす余裕が無い(普通はそんな余裕は無い)ならば自己同一性を確保すべきである。断片的でしかも自己同一性の無い発言というのは、無意味であり、会話は成り立たないはずである。

もしも、断片的かつ自己同一性を確保しない発言で会話が成り立つとすれば、それは単に、人間の持っている価値観の最大公約数を取って、その狭い言語空間の中に留まっているに過ぎない。これが、匿名的な言論空間がしばしば、人の外見や経済的観点、優劣、勝ち負けなどの決まりきった「最大公約数的言語」に収縮してしまう理由である。




このエントリーをはてなブックマークに追加

category: 表現

Related Posts Plugin for WordPress, Blogger...

芸、表現、ホンモノ病  


少しモノを考えることが好きな人間ならば、人生のどこかの時点で(おそらく自らが最も「それ」に蝕まれている時点で)、自分の考えや行動のどこまでに「パフォーマンス」「演技」「格好付け」「装飾」「フェイク」が潜んでいるのか、他人に対する芸やジェスチャーではない自分単体での動機に基づく行動があるのかどうか、真剣に思い悩むことがあるだろうと思う。そうして、少しでもパフォーマンスやフェイクが混じっているものを「ニセモノ」、そうでない純粋なものを「ホンモノ」として、最も単純なホンモノ-ニセモノの二元論に陥る。

そういう人間は、画家ゴッホのような人生を崇拝し、ある種の「精神病」の類に憧れ、「生きるために生きる」ことができなくなり、己のニセモノ具合を呪い、そして他人や世間にその憎悪を撒き散らしながら生きてゆくことになる。これを僕は「ホンモノ病」と呼んでいる。「ホンモノでなければ気が済まない」という病気である。

僕がそうだった。大学にいた頃は、全ての表現物が気に入らなかった。なぜならいかなる表現物も「他人に見せるために表現されている」という致命的な瑕を負っているからである。僕はこの二元論をうまく乗り越えることができず、こじらせてしまったほうである。僕は結局、アパートを飛び出して路上に出るまで、「他人や世間に見せるためでないものは何だろうか?」とずっと考え続けていた。

今はもう少し冷静に見ることができる。

第一に、これについて真剣に考え、本気で行動してみればわかるように、「パフォーマンス」に対する疑念は底無しである。日常の一挙手一投足は言わずもがな、パフォーマンスの呪縛を逃れられる可能性として真っ先に思いつく真理の世界ですらそうである。何かの知識を学習するとき、使用するとき、本当にこの「パフォーマンス」の力を使っていないだろうか。論理はどうか。数学はどうか。考え出すと際限が無い。その底の深さを知っている人ならば、安易に他人の言動を芸だパフォーマンスだと言ったりはしない。中途半端に自省する人間だけが、頭の中で作り上げた理想像の視点から他人に説教しようとする。

第二に、ホンモノ-ニセモノという二元論には多かれ少なかれ良い-悪いという価値判断が付随しているのであって、その価値判断の根拠は何だろうかと問い始めると、まるでわからなくなる。「他人に見せるための行動を取ることがある」というのは人間としての事実なのだから、何のためにそんな現象がこの世界に生じているのか、善悪の判断を横において考えなければならない。

第三に、僕はいずれ死ぬことを知っているが、それでも刻一刻と生きている矛盾した存在である。最初から、意図的なものと自然的なものに常に引き裂かれているのである。もしも、人間について全てのことを知りたいのであれば、そのニセモノ性とホンモノ性との両方と平等に付き合い、両方を深く理解しなければならないが、どちらか一方に強く惹かれること自体、「格好良く生きたい」というパフォーマンス性の現れである。

何のことを言っているのかわからない人は、この病気を患っていない証拠である。もしこの病気をこじらせて、「何も表現せずに死んでゆくのが一番良いのだ」と思い込んで縮こまってしまっている人がいたとすれば、つまらないことだと思う。ホンモノ-ニセモノの二元論は、表現論において結論ではなく、単なる入り口に過ぎない。臆せず表現すればいい。




このエントリーをはてなブックマークに追加

category: 表現

Related Posts Plugin for WordPress, Blogger...

プロフィール

最新記事

著書

カレンダー

カテゴリ