寝太郎ブログ

2月10日文庫本発売→『自作の小屋で暮らそう: Bライフの愉しみ (ちくま文庫)』

『絶望の国の幸福な若者たち』古市憲寿  



タイトルが秀逸である、なんとなく著者の名前を知っている、なんとなく著者と顔の系統が似ている、などの非合理的な理由で手に取った本。しかし自分にとって、不思議な本だった。

そういえば、秋葉原の事件を題材に小説を書こうとしていた田中慎弥がその理由を「犯人と自分の顔が似てると思ったんですよね。顔が似ているというのはあなどれないもので」と(考えてみれば当たり前のことを)言っていたのを思い出した。

この本を読み始めて期待するのは、我が国の絶望でもなく、若者の幸福でもなく、絶望なはずの状況でなぜ若者はそんなに幸福なのかというところだろう。

なるほど我が国の絶望的状況については、人口比率の問題を中心に広く読みやすくまとめられている(この本の大半がそれに費やされている)。若者が「幸福だと感じている」という事実についても、データが並べられている。

しかし、その二つを繋ぐ鍵が「コンサマトリー(自己充足的)」の一点しか述べられていない。コンサマトリーというのは「「今、ここ」の身近な幸せを大事にする感性のこと(p.104)」だそうである。

つまり、若者たちは「今、ここ」にある「仲間のいる小さな世界」の中で生きているので、

なるほど、多くの若者が生活に満足してしまうのも頷ける。幸福度研究によれば、幸せを感じるのに大事なのは実際の所得水準よりも、社会問題を「認識」しているかどうかだから、「今、ここ」を生きている若者ほど幸せなのは、当たり前と言えば当たり前である。(p.252)

として、ざっくり総括されてしまっている。

その「なぜ」の部分はいわば著者の想像力や解釈の力の見せ所だと思うのだが、どうしてそう考えるのか、総体としての「若者」をどこで見たのか、その理由が全く見えてこない。周りを見ていてなんとなくそう思う、ということだろうか。少なくとも、社会問題を認識しているかどうかということに関して言えば、過去の時代に比しても、誰もが多かれ少なかれ認識しているのではないだろうか。

邪推すれば、それはただ単に「正直、出会ったことがない、行ったことがない、見知らぬ人や物や場所のことは「どうでもいい」と思っている(p.295)」という著者の自己投影に過ぎないのではないかとすら思われる。

いや、もちろんコンサマトリーを重視している人もいるかもしれないし(僕自身もとても近視眼的である。コンサマトリーという言葉が適切かわからないが)、著者も「「若者」の全てを記述することなんてできない(p.15)」と予防線を張っている。しかし、一人ひとりの人間ってそんな単純なものではないような気がする。それをズバリ「若者は」として総括してしまうその度胸が自分には怖い。

僕は「人間の一般像」というものが全くわからないために、人間の集合を扱う文系科目は専らダメである。「一般の人間」としてどういうものを思い浮かべていいのかわからないのである。もちろん「若者」も然りである。端的に言うと、他人が何を考えているのかあまりよくわからない。その自分のダメさ、自分がこういった論考を不思議だと感じる部分をまざまざと見せつけられた一冊だった。

ただ、繰り返しになるが、事実やデータに関しては学者らしく丁寧な良い本だった。




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「資本主義との闘い方」より  


たまにツイッター等を拝見させてもらっているばたおさん(@BATAO_Hetare)の「資本主義との闘い方――自給自足と農的コミューンの建設」(『あじーる!』第3号、参照1参照2)という小論を(掲載誌を買いには行けなかったので個人的にお願いして)読ませてもらった。

ちなみにばたおさんのことは全く知らない。生き仏かもしれないし、極悪人かもしれない。ただ、「元エホバの証人」という経歴がとても気になる。その気になり方は「脱北者」に対する興味と似ているかもしれない。つまり「元・被洗脳者(良いものであれ悪いものであれ)かつ現・自立的思考者」に対する興味である。


以下、ダイジェスト。

第一章は「資本主義の何が悪いのか」

「商品」というものは、生産や流通過程の問題には口をつぐみ、消費者は記号と化した「モノ」が形成する「見世物的社会」―シミュラークル社会―に埋没する。その抹消された過程にこそ矛盾や問題が存在するにもかかわらず、それは外部に皺寄せされ「不可視化」される。

資本主義社会における豊かさとは、他者から奪ってくることで実現されるものだからだ。そしてそのために、矛盾をより周辺に――国内の富裕層が底辺層に、先進国が途上国に、現役世代が将来世代に――送り出し、問題を空間的にも時間的にも不可視化させるのが資本主義というシステムなのである。

第二章は「資本主義とどう闘うのか」

市場と商品への依存は、商品に頼らない生き方や楽しみ方を忘れさせ、私たちを資本主義を守らざるを得ない状況へと追い込み、結果、資本主義は再生産される。したがって、闘い方は「賃労働をやめて、自身の仕事を」に集約される。広い意味での「自給自足」であるが、著者は(たとえばガンジーのように)原理主義的にならずに、今ある便利なものは使ってゆこうというスタンスである。

第三章は「農的コミューンの建設に向けて」

未来的な理想として、自給的な農業を社会の根幹に据えた「農本主義的アナキズム」が先例の紹介と共に主張され、その礎となる自給自足に向けての著者自身の実践の第一歩について触れられている。


***

個人的な感想であるが、「資本主義が悪い」ことと「資本主義と闘う」こととは簡単には繋がらないのであって、結局どうして「闘う」のかよくわからなかった。

僕個人としては、与えられたルールの中で如何にうまく立ち回ってゆくか考えるだけである。どう生きるにしても、資本主義(というかそれによって局所的にもたらされている富)は倒すのではなく、うまく利用したほうがいいと思っている。

いずれにしても、「不服従」と一口に言っても、社会全体の流れに反するようなことを実際やるとなると、理不尽なこと、うまくいかないこと、面倒くさいこと、効率悪いことが重なって、ダークサイドに陥ることがある。ぼちぼちやっていこう。




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