寝太郎ブログ

新刊 『存在消滅 ―死の恐怖をめぐる哲学エッセイ』が出ます  


久しぶりに本を書きました。

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『存在消滅 ―死の恐怖をめぐる哲学エッセイ』(高村友也/青土社) というタイトルで、5月26日発売です。



各章完結のエッセイですが、軽く読めるところと、そうでないところと、半々くらいかなと思います。

目次を置いておきますので、何か感じるものがあったら、読んでみてください。

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はじめに

第一章 危機
小屋暮らしと意識の孤独/日常を呑み込む死の観念/死に怯える日々/正気を保って生きてゆく/帰郷

第二章 永遠の無
私にとって死とは/なぜこんなにも死について考えるようになったのか/思考の堂々巡り/「死が怖くない」という人たち/短くて良い生よりも、長くて悪い生を望む

第三章 世界の神秘
最も不思議なのは「存在すること」/宇宙と意識/生命と意識の神秘

第四章 問いの在り処
人生の内部の問題/人生の外部の問題/死を前提とした生き方

第五章 他人と孤独
死の恐怖を忘れた瞬間/人間はそう簡単には孤独になれない/死の概念の源泉としての他人/自分の死が確認される時

第六章 対症療法としての逃避と忘却
畑を借りる/「普通」に対する羨望/何も考えないことの気持ち良さ

第七章 執着と諦観、信頼と不信
人生が終わることは諦められない/人生の損得勘定の破綻/人生の短さ/心に余裕などない/最も私的な問題

第八章 文明
アパート暮らし/贅沢は要らないが、命は欲しい/今が宴の時代なら、宴を生きたい

第九章 自己矛盾
いつか死ぬことを知りながら生きている私/生きることに清いも汚いもない/根源的不安

第一〇章 旅の動機
虚無に抗って/ずっと旅ばかりしてきた/空虚でさえなければなんでも/虚無を通り越して

第一一章 宗教
無信仰であることの苦しみ/宗教を信じることの難しさ/仏教は万能ではない

第一二章 人生の意味
人生に意味はあるのか/「人生の意味」と「死の問題」の接点/「大きな物語」の中で生きる/便宜的仏教

第一三章 小屋暮らし、再び
また小屋を建てる/不安という現象を乗り越える/振出しに戻る/生きてみる

あとがき
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僕の今後の予定ですが、しばらくは小屋にいるんじゃないかと思います。

ワクチン3回打って山籠もりって意味が分からないですが。

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category: 出版

マリファナと精神依存  


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昔インドで、一度だけマリファナを摂取したことがある。一度というか、正確にはある宿にいた数日間のうちに何回か試してみたのだが、面倒くさいので「一度」と言っている。それ以来、国内外問わず無縁である。

タバコを吸わない自分は煙に抵抗があったので、いわゆるバングークッキーという、生地にマリファナが練り込んであるクッキーを食べた。正確な値段は覚えていないが、確か数個で100円とかそんなもんだった気がする。

一番最初の自覚症状は「陶酔」だった。すべての音がものすごく美しく、神秘的に聞こえる。それから「食欲増進」もあった。ほとんど無限に食べられる。しかも信じられないくらいおいしい。日本で言う焼きそばみたいな麺を、何杯もおかわりしてしまったのをよく覚えている。食べるのをやめたのは、満腹感からではなく、理性が働いたからである。

僕がそのあとマリファナを続けなかった理由はいろいろあるのだが、一番は多分、「こういうものか」とわかって満足したということ。それから、アジア横断の途中で都市を移っていく必要があったこと。その宿の主みたいな日本人がいて、その人が買えるお店を教えてくれたのだが、その日本人が如何にも「ハマってほしそう」だったので、逆に興が冷めたこと。BADトリップというほどではないが、僕は「自分の死」という爆弾を脳内に抱えているので、そういう負の観念が増幅していってマズいと思った瞬間があったこと。

「こういうものか」とわかった、というのは、当時はそこまで明確に理解していたわけではなく、文字通り「こういうものか」くらいのものだったが、改めて文章化するとこういうこと。僕はいつも、「今、ここ、私」に陶酔するという実存性と、一歩引いて俯瞰的に見て理解する超越性と、その両極間のどこかに位置付けることで物事を理解することが多く、「マリファナは実存だな」という理解に納まったということ。その両極があるのが人間だと思うので、どちらか一方に偏ったところで見えた景色だけが真実だとは思えない(このことは『僕はなぜ小屋で暮らすようになったか』で少し書いた)。

さてそのあと、幾度となくアジアを訪れたが、もう数えきれないくらいのマリファナ常習者と接触した。僕が好きなチェンマイから少し北に行ったところにあるパーイは、今でもマリファナの聖地である。僕はよく、常習者と間違えられて、向こうから近づいてくるのだ。おそらく、瘦せ型であることと(あんなに食欲増進するのに、常習者は揃って痩せている)、服が汚いことと、あとなんとなく覇気がなく自分の世界に籠っているような雰囲気と、まあ間違えられても然もありなんという感じである。ちなみに、自分が小屋暮らしをし出してから、日本でも直接的、あるいは間接的に、マリファナ常習者とかかわったことがある。

彼らはみな、黒い空洞のような目をしていた。独特な雰囲気があるので、すぐにわかる。どうしてそうなってしまうのかというと、僕の考えだが、精神的な依存性というものを軽視しすぎているからだと思う。

よく知られているように、マリファナには強い肉体的な依存性や、直接的な害はない。それどころか、大麻にはCBDと呼ばれる鎮静や鎮痛・抗炎症作用のある成分が含まれており、医療用大麻として期待されている。僕は医療用大麻にはまったく賛成である。もちろん副作用の有無などは正確にはわからない。しかし、少なくとも他の同様な効果を持つ薬類と比べて、つまりベンゾジアゼピンやモルヒネのようなものと比べて、害は少なく、もっと気軽に使えるものだと思うからである(素人意見である)。

一方、「精神的依存」という言い方は少し違うかもしれないが、つまり、精神の高揚というのは相対的なものなので、マリファナのような「高揚」や「陶酔」に慣れてしまうと、日常が灰色になってしまう。そりゃそうだろう。ただの足音が、ベートーヴェンの何倍も美しく聞こえるのだから。そうしてマリファナの入手ルート、価格、摂取方法、それを可能にするライフスタイルや旅程、そういうものに興味が限定されてゆき、それ以外の外界に対して興味を失っていく。なにしろ、「それ」さえしていれば幸福で満足で、それ以上はないのだから。

これが、僕が「嗜好用大麻」に関して、絶対ダメとは言わないまでも、やりたい人はやればいいけど僕は遠慮しておく、くらいのやんわりとした抵抗を示す理由である。

むろん、大麻愛好者は「ハイになりたい」「陶酔したい」とばかり思っているとは限らない。つらいことを忘れようとしている人も多いと思う。「嗜好用」というのは、「遊びで」というよりはむしろ「非医療用」という意味である。そういう人たちに対して「やめたほうがいい」などという法律以外の理由は今のところ思い当たらないが。

ところで、こうした「精神的な依存」をもたらすものは違法合法や程度の差はあれ身の回りに溢れている。本や映画然り、お菓子やコーヒー然り、お店のちょっとした飾りつけ、大袈裟な言葉や会話、儀礼儀式などなんでもそうである。あまりに強い精神的な刺激や、ドラマチックな物語を味わってしまうと、魂を持っていかれて日常がつまらなくなってしまうのである。今の世の中で、何もせずにじっとしていられる人は少ない。ほんの少しでも時間が空けば、何かそういう精神作用をもたらすものを摂取しないと時間が過ぎず、小説なんぞを開いたりしてしまう。まさに「依存」である。

これが良いことなのか悪いことなのか、僕はいつもよくわからなくなる。例えば地球に僕ともう一人しかいなかったとして、最初はそれぞれ自分の米を作って暮らしていたのに、ある時からその人が漫画を描き出して、僕はその漫画を読ませてもらう代わりに二人分の米を作るようになったとして、それは良いことなのだろうか。つまり、精神依存が進んだ社会というのは、良い社会なのだろうか、悪い社会なのだろうか。「嗜好用大麻」の善悪がはっきりしないのも、突き詰めてゆくとそういうところな気がする。




category: メンタル

何も興味なくなっちゃったな。ミニマリストとか、脱資本主義とか、タイニーハウスとか。  


拙著が何度か参照されているということで『消費ミニマリズムの倫理と脱資本主義の精神』を読んだ。この本はいい意味でも悪い意味でも辞書的な本で、教科書的なヴェーバーの解説から、直近の日本のミニマリスト関連の一般書までよく網羅されており(なにしろ僕の本が入っているくらいだから)、ミニマリスト界隈の概観を知るには最終形と言いうるような本だが、読んでいて面白いかというとそうでもなく、ミニマリストマニア以外の普通の人にはお薦めできない。

拙著が出てくるのは、一つはタイニーハウス運動の勃興についてであり、もう一つはphaさんや大原さんらと共に「自己との和解」という括りで、消費ミニマリストになった契機について個人のエピソードとして触れられている。

僕は確かにミニマリストと言いうるだろうし、タイニーハウスに住んでるし、脱資本主義的傾向はないかもしれないが、とても資本主義的社会の陽の当たる道を歩いているとは言えず、事実としてはその通りで、そういう文脈でものを言ったこともあった。僕は他人に称賛されたり肯定されたりするような生き方をしたことはないと思うが、自分が勝手にやっていたことについて社会の大きな流れの中で何か意味を見出されるのは決して不快なことではなかった。

けれど、どうも、なんにも興味が無くなっちゃったな。

そういった、現代のメインストリームから外れるような生活形態、行動志向をまとめてなんと呼んだらいいのかわからないが、「オルタナティヴ(代替)」と呼ぶとして、オルタナティヴは結局、誰の、何のためにやるのか。自分のため?みんなのため?仕事のため?

純粋に自分の幸せのためだとしたら、別に普通の次元で仕事をして、普通の次元で物を買って溜め込んで、幸せに暮らしている人は大勢いるというか、それがほとんどだと思う。それと逆のことをして、結局のところ「どう」なりたいのか、それがわからない。だいたい本なんかでは、そこのところはぼやかされていて、「幸せ」「精神的満足」「本当にやりたいこと」「本当に好きなこと」といったぼんやりとした概念が終着点になっている(断っておくと、僕は自分について記述するときにそうした曖昧な概念で締めくくったことはない)。もちろん、したくもない仕事をして、その反動で物を買い漁って、というような状況が「幸せ」かというとそんなことはないはずだが、それは現社会においても「異常」「極端」な状態であり、そこを出発点として語られても、ずいぶんハードルを下げたなという印象しかない。

純粋にみんなのため(あるいは地球のため)にオルタナティヴを選んでいる人というのは、僕は知らない。だいたいまあ誰でも、年齢が年齢になって、生活や人生が落ち着いてくれば、その平和状態を維持するために「地球」や「社会」を優先するような考えを持つことは一生物体として自然なことである。それは「純粋にみんなのため」とは言えないし、それを超える純粋な自己犠牲の人がいたとしたら、むしろ少しこわい感じがする。

あとは、オルタナティヴが仕事になってしまっている人。単純にオルタナティヴを提示することで物やお金が回るようになってしまった人だけでなく、もう少し広い意味で、それによって人間関係が広がったり、あるいはそれが自分のアイデンティティになったりして、オルタナティヴそれ自体よりもそのことが楽しい人たち。さらには、仕事だけでなく、研究分野(学生も含めて)としてオルタナティヴに関心がある人たち。

いずれのケースも、僕は全く批判もしてないし、とても健全な人たちであると思うが、別にそれならオルタナティヴでなくてもよかったのではと思うことがしばしば、そうすると結局、オルタナティヴって、誰の、何のためだっけ、という最初の問いに戻ってしまう。

だいたい、そのゴールが曖昧であるために、先述した「幸福」や「精神的豊かさ」などの「曖昧な終着点」というものが誇張されがちで、誇張されるだけならまだしも、オルタナティヴに対する、「物質的に質素な暮らしでは、精神的に豊かであらねばならない」「物はないが、時間的余裕と幸せはある」「のほほんと、楽しく、無欲に暮らしている」というような世間ないしはメディアの独特な偏見や期待のようなものを醸成している気がする。で、やはりそういうストーリーが流行る。これに対してはずっと違和感を感じていた。そんなわけがない。

僕はまあ、自分としては普通に生きていたら今みたいなことになっているけれど、「おかしなことになってんな」と自覚することもあるし、「自分にはこれしかできなかった」と思うこともあって、いずれにしても無欲でもなければ余裕もないし、自分一人のことでいっぱいいっぱいで、「ミニマリズム」や「脱資本主義」は Far from it. という感じである。浪費家だろうと資本家だろうと、安穏に暮らしてゆければなんでもいい。その方法がわからないのだが。




category: ライフスタイル

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