寝太郎ブログ

2018年12月6日雑誌発売→『kotoba(コトバ) 2019年 冬号』特集・孤独のレッスン

簡単な自己紹介  


・宇宙と時間について

私は、宇宙(物の世界)が、自分の意識や認識とは独立に存在していると信じています。また、その宇宙には、自分の意識や認識とは独立に時間が流れていると信じています。そうした「意識の外にある世界(外的世界)」としての宇宙は、常に意識の内部に留らざるを得ない自分には確かめようのない存在です。しかし、自分の素朴な信念を反省したとき、やはり「外的世界は自分とは独立に存在する」という前提で物事を考え、行動しているように思います。

仮に宇宙が存在するとして、それらの「物」や「時間」は、五感や想起・予期といった認識や意識の作用を通してしか知りえないため、自分の認識以前の「真の姿」は自分にはわかりません。しかし、再び自分の素朴な信念を反省してみれば、「物」に関しては、たとえば私の目に赤色に映るリンゴは、私や私以外の意識存在の認識以前には単なる電磁波を反射している物体であり、赤色をしていないと信じています。物理的な世界は無色無臭の世界であって、生命の意識にはそれが「赤」や「青」に映る、というわけです。味覚、聴覚、臭覚に関しても同様です。触覚は少し微妙なところがありますが、物が当たる感覚、圧力がかかる感覚、押し返される感覚、などは意識由来のものであり、「物が空間を占めている」こと自体とは違うだろうと思います。

一方、「時間」に関しては、私が過ぎ去った過去を想起したり、未来を想像したりするとしないとにかかわらず、つまり私の意識が時間を「感じるか否か」にかかわらず、普段認識しているような「時間の流れ」が全くそのまま客観的に存在していると信じています。唯一絶対の「現在」というものが客観的に存在して、それが刻一刻と移り変わるという仕方で「時間が流れ」ており、私はそれをそのまま認識しているだけだと信じています。つまり、私がいなくなっても(あるいは生命がいなくなっても)、時間は流れ続ける、ということです。なお、宇宙が時間空間的に無限であるか有限であるかは、わかりません。どちらだとしても自分の理解を超えています。

・存在と神秘について

私がこの世界で最も不思議だと思うことは、「存在」です。この世界で何が本当に「在る」と言えるのかは分かりませんが、物質であろうと、時間であろうと、意識であろうと、観念であろうと、物理法則であろうと、何も無いのではなく、何かが在ること。この世界が無ではないこと。最初は無であったのにある瞬間に何かが存在し始めたとしても不思議ですし、最初から存在していたとしても不思議ですし、そうした「発端の不思議さ」を除いても、今この瞬間に無ではなく何かがあることがとても不思議です。

この不思議さは「日蝕が不思議」というのとはわけが違います。日蝕の不思議にはカラクリがあります。存在の不思議にはカラクリがありません。何も隠されておらず、全てが白日の下に晒されていて、そうであるがゆえに一層不思議です。そうした不思議を「神秘」と呼ぶとします。神秘は、私自身ないしは人類の知恵の不足によるものではなく、人類の知能がこの先どれだけ進もうと、原理的に解決されえない不思議です。

・生命と意識について

さてしかし、この「存在の神秘」はあまりに不思議すぎて、圧倒されるばかりで手を付けようがありません。そこで、ほんの少しだけ問いを易しくします。存在して然るべきものを仮定し、思考の出発点とします。自分自身の素朴な信念を反省するなら、それは「宇宙」です。とりあえず「物」や「時間」は然るべくして存在するとします。そうして「まず最初に宇宙ありき」と考えたときに、私の目に不思議として映るのは、生命の存在と、意識の存在です。

生命と非生命との線引きは簡単ではありませんが、代謝して自己保存し、生殖して遺伝子を残そうとする、生物学的な、ないしは、生理学的な意味での生命が、物理世界に存在することは不思議です。たとえ生命の身体が物質によってできているとしても、私は生命が物理学・化学に還元されてしまうとは思いません。生命の誕生時に物理的に言って何が生じたのか解明されたとしても、それを生じせしめたことそのものが物理学に還元されることはないように思います。また、この生命現象全体がなぜ、なんのために存在するのか、その意味も「最初に宇宙ありき」という観点からは全く不明です。

さらに不思議なのが、意識の存在です。生命の不思議と意識の不思議は、とりあえず区別されなければならないと思います。なんとなれば、今現にあるのと全く同様に宇宙も生命現象もあったとして、つまり地球も人間もいたとして、そこに意識が無かった可能性は容易に想像できるからです。今現にあるのと同じように、人間が、リンゴによって跳ね返される電磁波を情報処理し、それに基づいて行動し、物を食べ、社会を形成し、命を繋いでいたとしても、そこに意識が伴っている(つまりリンゴが「見えて」いる)必然性はありません。意識の無い世界から意識が誕生したのは不思議ですし、この意識がなんのために存在しているのかもやはり不明です。

これら二つの不思議も、やはり神秘であると思います。ここで、もう一つの不思議は、「生命の神秘」と「意識の神秘」がどうやら同じところで生じているらしいということです。意識は、岩石や惑星ではなく、どういうわけか生命に伴っているように思われます。これが偶然であると考えるのは無理があります。だから、何か同一の原因によって生命と意識が誕生した(もしくは最初から在った)のだろうと考えたほうが自然です。そういうわけで、私は動植物の全てに意識の片鱗があると考える傾向にあります。だからと言って、木が自分を見ているとか、木が伐られて痛いとか、そういう単純な擬人は当たらないと思いますが、一種のアニミズムを支持しています。

・死について

私は、私自身がいつか死ぬと信じています。私にとって「死」とは、永遠の無です。無は、今現に存在している状態から捉えるなら、存在消滅と言ってもいいし、意識の非存在と言ってもいいです。私にとって生命や意識はとても不思議なもので、物理現象としての肉体に生命や意識が偶然的に付随しているだけだとは思えないので、肉体が滅びれば何もかも終わりかどうかはよくわかりません。けれども、「この私の意識」が残るような仕方で何らかの死後生があるとは信じていません。

私が最初に死に関してこのような描像を抱いたのは、小学校に入って間もない頃です。突如、数百年でも数億年でもない、二度と戻ってこない「永遠性」というものをリアルに思い描きました。私は至って健康であったし、私の周囲の人間もまた健在でした。私の生まれた時代は控えめに言っても平和で、命の危険を身近に感じるようなことはありませんでした。何より私は幸福で、満たされており、自分自身の生や現世を忌み嫌う理由は何一つありませんでした。つまり、何の契機も、何の文脈もなく、私の思考の中に突如、「いつか自分の存在は消滅して、永遠に戻ってこない」という考えが降ってきました。このことは端的に、私の抱く死についての問題が、少なくとも第一義的には、自身の病苦や、近親者の死や、時代の混沌や、あるいは自己否定感情などといったような私自身の人生の内部の問題には起因していないことを意味しています。以来、今日に至るまで、私の死の描像は寸分も変わっていません。死とは、「永遠の無」です。

私は死に対して「恐怖」と「不安」と「虚無」という感情を抱いています。一般に、「恐怖」の感情は対象が明確であるのに対し、「不安」の感情は対象が不明確です。私が「不安」を抱くのは、死そのものに対してというよりも、「実際にいつ死が訪れるかわからない」という不明確さに対してです。また、「虚無」の感情も、死そのものに対してというよりも、「やがて死んでしまう」という大きな暗闇を背後に抱えつつ、人生のあれやこれやのことをしなければならないということに対してで、つまり死を前提にした生に対する感情です。そういうわけで、私が正確に「死そのもの」に対して抱く感情は「恐怖」のみであると言えます。

・他人と孤独について

私は、他人にも意識があると信じています。自分の意識の内部に留まらざるを得ない以上、他人に意識があることを確認することはできません。しかし、私にとって重要なのは、私が物心ついたときに既に素朴に「他人に意識がある」と信じていたという事実です。この事実は、この世界に複数の意識があるということよりも、ずっと不思議です。なんとなれば、生まれて此の方、私は私自身の意識しか直接的に観察(内観)したことはないのに、また、学校の教科書に「他人にも意識があります」と書いてあったわけではないのに、他人にも意識があると自然に考えるに至ったからです。そして、私の見聞によれば、誰もが同様に、他人に意識があると素朴に信じているようです。そういう意味で、私自身も含め、本当の意味での独我論者(この世界には自分の意識しか存在しないと信じている人)はいません。

私は、ただ単に他人に意識があると信じているだけではなく、その意識内容も、自分と同じだと信じています。たとえば、リンゴの色です。私がリンゴを見たとき、私の意識には「赤の感じ」(クオリア、感覚質とも言います)が映ります。しかし、同じリンゴを他人が見たときには、他人の意識には「青(と私が呼んでいる色)の感じ」が映っていて、それをその人は「赤」と呼んでいるだけかもしれません。その人には、夕焼けや炎が青色(と私が呼んでいる色)に見えていて、その人は常に青色(と私が呼んでいる色)から温かみを感じる、というわけです。そうした可能性があるにも関わらず、それは後々になって湧いてきた懐疑であって、物心ついたときには素朴に「他人も自分と同じ意識内容を持っている」と信じていました。今もそう信じています。

他人の意識と自分の意識が独立しているという単純な事実は、私を孤独にさせます。他人が感じている痛みを自分が感じることはできません。逆も然りです。けれども、その一方で、「他人にも意識がある」「他人の意識内容も自分と同じである」と素朴に信じていることが、私には自分の意識と他人の意識とがとても深いところで繋がっている証拠であるように思え、また、そう素朴に信じている限りにおいて、私は孤独になりきることは不可能だとも思います。

・自由について

「自由がある」と感じるのは単なる錯覚であるという人もいますが、私は自分には自由があると思っています。たとえば、右手を挙げる自由です。しかし私にはその「自由」の正体があまりよくわかっていません。私の自由はいつ発動したのか。右手を挙げようと意志したときか、それとも実際に右手を挙げたときか。もし「意志する自由」だとしたら、意志することを意志したことになり、これは無限後退に陥りそうです。もし「意志に従って肉体的ないしは精神的な行動をする自由」だとしたら、意志すること自体が自由でない限り、結局自分の行動も自由ではないことになります。

「最初に宇宙ありき」とすれば、「自由」も不思議な存在です。自由もまた、神秘です。私は自由を端的に知っているのであり、そこには何も隠されていません。しかし、その「端的さ」ゆえに、より一層理解を拒みます。宇宙には自由はありません。ニュートン力学にも量子力学にも相対性理論にも自由はありません。命あるもののみに自由があります。自由も、意識と同様に、岩石や惑星ではなく、どういうわけか生命に伴っているように思われます。やはりこれも偶然とは思えず、何か同一の原因によって生命と共に誕生した(もしくは最初から在った)のだろうと思います。再び、私は動植物の全てに自由の片鱗があると考える傾向にあります。だからと言って、木が枝を動かせるとか、そういうことではありませんが。

・宗教と神について

「非合理的」という烙印の下に宗教を一刀両断してしまうのは簡単ですが、一筋縄ではいかない面もあります。第一に、この世界には合理性や科学によってはわからないことがたくさんあり、まさにその部分こそが自分の関心の対象だからです。第二に、私自身も非合理性ないしは「信じること」と無縁ではないからです。第三に、そもそも合理性と非合理性の線を引くのはとても厄介です。とはいえ、物語や擬人化による世界理解、神の存在、あるいは経典や教説をそのまま信じるといった、宗教の最も原始的な部分は、論ずるに値しないと考えています。また特定の宗教が提唱する「生き方」も、部分的に見れば役に立つことはありますが、不十分ないしは想像上の世界理解に基づいている以上、その全てを鵜呑みにすべきではないと思います。

宗教を「真偽よりも信仰を優先する」ものとして考えたとき、私にとって宗教が救済になりうるか否かは、「真でない」と分かっている事柄を信じることができるか否かに依ると思います。私には「真ではないと思っていることを信じる」ということがどういうことかよくわかりません。「信じる」とはすなわち「真であると信じる」ことに他ならないと思います。

・言葉について

私は言葉を使いますが、言葉の使用が何か自分にとって重要な問題に対する考えを偏らせ、あるいは歪めていると感じたことはありません。あるいは、自分にとって重要な問題自体が、言葉の使用によって問題然としているだけの疑似問題であるとも思いません。「言葉が無ければ思考も無い」とは思いませんし、「言葉が無ければその言葉の指示対象も無い」とも思いませんし、「言語の限界が思考の限界と一致している」とも思いません。たとえば、「死」という言葉が無ければ死は無い、とは思いませんし、死という現象は言葉の空間で扱えるものではない、とも思いません。

もちろん、違う人間が同じ言葉を使う限り、意思疎通や相互理解の問題は常に生じますが、それは単なる実践的な問題であり、そのことが何か自分の世界理解を根本的に歪めているとは思いません。私にとって言葉は、言葉以前の外的対象なり内的表象なりを記号化し他者と共有するためのものです。おそらくとても常識的な言語観だと思います。




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死、書くこと、考えないこと  


 死ぬことが怖い。死ぬこと、つまり永遠の存在消滅。何を考えていても、結局、ここに戻ってきてしまう。もっと現実的に、どうやって生きてゆくか、という類のことを考えていても、次の瞬間には「そんなことはどうでもいいんだった」と、それまで考えていたことが死の観念によって一掃される。そして振りほどくように頭を空っぽにして、もぬけの殻のような時間を経て、また「どうやって生きてゆくか」と考え始め、ずっとこの繰り返しである。
 このことについて書いていいのか、書いていいならいつどのタイミングでどこに書いていいのか、書いたことを後悔しないのか、自分には全然わからない。けれども、この恐怖ないしは虚無という肉体的な実感を無視して何か考えたり書いたりしようとしても、なにもかもが断片的に感じられ、次の日には忘れてしまっているか、どうしてそんなことを考えていたのかわからなくなってしまっている。何かを書くときに一人称的な肉体感覚を話の糸口とすることは甘えだと思うが、そうでもしないと、些末なことも重大なことも何もかもがのっぺりと等価に感じられ、収拾がつかなくなってしまうのである。
 元来、死について考えることは、生きることを断片化してしまう。ずっと目的をもってやってきたはずの大小のことが、どこにも繋がっていないのだと知って、日常のあらゆる行為が、言葉が、バラバラになってしまう。生によって紡がれるはずの一つの物語を断片化してしまうのが死である。けれども逆に自分の場合は、まったく忌々しいことに、長く死について考え感じてきたので、少なからず死というものを幹として思考や行動が枝葉を広げてしまっており、「死について考えないようにすること」のほうが、自分の思考や記憶をバラバラにしてしまう。つまり自分は、死について考えようと考えまいと、どちらにしても、一つの整合的な存在として生きられない運命にあり、引くも地獄、進むも地獄、それがどうにも苦しい。
 書くことはひとつの救いである。なぜならそれがたとえ整合的でない、バラバラで矛盾したことでも、一枚の紙の上に、あるいは一冊の本の中に書けるからだ。それを持っていれば、いくらか安心する。
 最近ようやく少し読んだり書いたりできるようになってきたが、ずっと言葉を扱うのがしんどかった。せっかく頂いた大小の執筆の話も保留するしかなく、何か書けたら見ていただけますかと言ったきり。三冊目の本は無事に初版完売したようだが、増刷するほどの売れ方をしているわけでもなく、絶版ということになるだろうという話だった。寂しいものである。
 肉体感覚を思想的に昇華させることは、生産的な行動の一つであろう。つまり、「死が怖い」ではなく、「やがて死ぬことを知りながら生きている人間存在の矛盾」といった具合に。その矛盾は元を辿れば、人間が宇宙開闢の意識存在であると同時に、意識している自分を意識する神のような視点を持ちうることの矛盾であり、さらにその矛盾を見つめてゆくと単なる人間の認識のみに関わる(認識論的な)矛盾ではなく、世界そのものの(存在論的な)矛盾へと繋がっている。少なくとも矛盾した我々は、ただそこにありのままに存在している単一の世界というものがどういうものか想像することすらできない。古今東西の哲学はこのことを手を変え品を変え言っているものと理解している。しかしそうして思想的に遠くまで行って何か生産的なことをした気がしても、次の瞬間には、以前とまったく同じ場所ー恐怖と虚無ーに佇んでいることを見出して呆然とするのだ。
 「生産的な行動」の虚しさに打ちひしがれると、負の感情の渦に引きずり込まれる。物事を人生の内部の問題としてしか理解しない世間に対する絶望のような寂しさのような気持ち。自分の人生、あるいは他人の人生の「内容」が、良いか悪いか、恵まれているかそうでないか、幸せか不幸か、成功か失敗か、そういう物語語しか話さない世間に対して感じる孤独な気持ち。あるいは、それと相反するようではあるが、強迫的に死について考えてしまう原因はやはり自分の人生の内部にある(あった)のではないか、といった自己否定、後悔の類。大きすぎる生を戒めるために虚無が膨らみ、いくつかの要因によって生が萎んだとき虚無だけが残ったのではないか。しかし、仮にそうであったとしても、つまり、自分の生き方が間違っていたから死について考えてしまうのだとしても、それでもなお、死の問題、永遠の存在消滅の問題は、厳然として残っている。生き方が正しいかどうかなど、そんなことはどうでもいいのだ。いやしかし、この肉体的な苦痛の原因は死の問題そのものに起因してはいないだろう。何らかの現世的な理由があったはずである。いや、自分個人の人生の内容が苦痛であるか否かなんてどうでもいいのだ。やはりいつか死んでしまうのだから。いや、さしあたって生きてゆくためにはそのどうでもいいことが重要なのだ。そのどうでもいい「人生の内容」を良くしようとすることが唯一の生きる術なのだ・・・堂々巡りである。
 最近はよく東京でウーバーイーツというフードデリバリーの自転車を走らせるようになって、これが一つの逃げ場になっている。自分には、この仕事が良いか悪いか、つまり労働条件がどうとか、フードデリバリーが来るべきインフラのひとつとなるのかとか、これをすることで世界が良くなっているかとか、そういう難しいことはよくわからない。ただ、依頼を受けて自転車で走っている時は何も考えなくてよくて、それがものすごく気持ちいい。お金が増える増えない、どのくらい効率的に増える、という単純なことを考えているのも、何も考えていないのとほぼ同じで、気持ちがいい。本当に危険なくらい気持ちがいい。家に帰ってシャワーを浴びて一段落すると、また走りたくなり、明日になるのが待ち遠しいとすら思う。「何も考えない」ということをこんなにも求めていたのだなと実感する。
 「何も考えない」ことが自分の抱える問題の解決にならないのはよく知っている。むしろ「何も考えない」ことを万能薬のように称揚する仏教的なるものにはずっと反感を覚えてきた。ただ自分の場合は、解決のない中でそれでも生きてゆくための現実的な方法として、つまり対症療法として、あるいは道具として、今はなるべく何も考えない時間を作らなければならないように思う。自分は無趣味なもので、趣味に没頭するような「何も考えない」時間を作ることがとても難しかった。だから「良い趣味ができた」とも言える。頭を空にして核心的な問題を考えないようにするために、これまで様々なアルバイトや畑、歩くこと、数学といろいろ試してはやめてしまっていたが、果たして今回はどうなるだろうか。
 走っていると気持ちがいい反面、止まるのが怖い。依頼が来ないときは闇雲に走り回っても仕方が無いので止まることもあるのだが、そうするとこれまで猛スピードで動いていた風景が静止し、ずっと耳を覆っていた風切り音が止み、血の巡りの良くなった体だけがただそこにポツンと佇むことになる。そうするとまたいろいろと考えてしまう。
 自分は、日常が欲しいのだ。そして日常を見失ったとき助けになるのは、たくさんの人が同じ日常を共有しているということ。自分もその共有された日常の波に無意識に乗っているということ。自分が小屋暮らしを続けられないと思った最大の理由。自作小屋の暮らしは、自分一人の意識が、自分一人の日常が、自分一人の正常さが、すべてである。それが崩れたときにすがるものがない。これを弱さだという人は、本当に目の前がグラグラした経験や、思考そのものに吸い込まれるような危機を覚えたことが無いのだろうと思う。もちろん、他人と共有された日常も盤石ではない。けれども、生きてゆくには、「考えることをやめる」「他人の意識に身を委ねる」といったような非本質的な助けが必要なのだ。
 春も幾日か小屋へ帰った。いつも通り小屋の内外をきれいにして、湧き水でコーヒーを飲み、来し方行く末を思い、静かなロフトで深く眠って、そして東京へ戻ってきた。特筆すべきことはなにも無い。宿泊費無料の小旅行と思えば最高であるが、そこには「暮らし」としての矜持は無い。そういえば、バイクの整備マニュアルを購入し、徹底的にバイクを直すのが春のメインイベントとなる予定だったが、肝心のマニュアル本を東京に忘れてきてしまった。なんだか最近そういうのが多い。前はそういう類のミスは滅多にしない人間だったのだが。
 僕はとにかくゆっくり生きてゆきたい。「ゆっくり生きてゆくことで得られる何か」を謳うつもりは毛頭なくて、忙しくしている人は忙しくしている人で充実しているということはよくわかる。けれども、自分には向いてないと思う。自分には、節約しながらゆっくり生きてゆくのが性に合っていて、将来的にも田舎か都会かはわからないが、そういう生活をしたい、そういう生活しかできない。




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Uber Eats(ウーバーイーツ)配達員の登録方法とキャンペーンについて  


(2019年11月現在の情報です)

 アプリをオンにすれば仕事開始、オフにすれば終了。ウーバーイーツのメリットはこの気楽さに尽きる。

・案ずるより産むが易し

 仕事自体は拍子抜けするくらい簡単で、案ずるより産むが易し、とりあえずやってみたほうが早い。オンライン登録してパートナーセンターにバックを受け取りに行けば、その日から配達可能。アプリをオンラインにして待っていると、依頼(リクエスト)が来るので、お店に行って、商品を受け取って、注文者さんに渡しに行けば終わり。

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・収入

 都心で自転車だと、良い日も悪い日も、短い日も長い日も、全部均して時給2000円程度。バイクだと売り上げの額面上はもう少し高くなる。新人期間中はさらに二倍以上の収入。
 参考までに、2019年7-9月期の僕の数字はこんな感じ(都内、自転車)。
・平均時給:2091円
・一件あたりの売り上げ:674円
・一時間あたり件数:3.1件

・準備すべきもの

 自転車かバイク。一長一短だが、自転車のほうが圧倒的に多い。docomoのレンタル電動自転車(通称赤チャリ)は月額4000円だが、数が少なかったりバッテリー残量がなかったりで、場所によっては使える自転車を探すのが大変。
 バックはかなり大きいので、中で商品が倒れてこぼれたりしないようにうまくスペースを埋めるような緩衝材なり梱包材なりが必要(僕は100均の保冷バッグ2つと梱包材のプチプチを何枚か使用)。
 自転車やバイクにつけるスマホホルダーもほぼ必須。スマホの着脱が容易なものがよい。
 現金払いを受け付けるなら、釣り銭。
 雨の日も稼働するなら、レインコートやスマホの防水ケースなど。

・登録前に知っておいたほうがいいこと(紹介キャンペーン)

 現在ウーバーイーツでは新規配達員の紹介キャンペーンをやっていて、新規配達員を紹介すると紹介者に結構な額の紹介料が支払われる(金額は登録地による)。キャンペーン自体は紹介者のためのキャンペーンで、新規登録者には特にメリットはないが、紹介料の一部を登録者に(個人的に)キャッシュバックするということが広く行われている。(僕自身も同様にキャッシュバックを受けた)
 僕の招待コードを使ってもらえれば、東京なら70000円(紹介料は80000円)をキャッシュバックします。その他の地域も相応の金額をキャッシュバックします。招待コードをSNSで公開することは禁止されているので(サポートに確認済み)、detailsuber@gmail.comに空メールを送っていただければ、招待コードとキャッシュバック受け取り手続きの詳細を自動返信します。

・新人クエストについて

 仕事を始めて1週間程度すると、「クエスト」(あるいは「インセ」)と呼ばれるボーナスがつくようになる。3日以内に何回配達で何円ボーナスという「日跨ぎクエスト」と呼ばれるクエストと、雨の日や週末など配達員の不足が予想される日につく「臨時クエスト」がある。一般の配達員の日跨ぎクエストはだいたい1配達100円前後であるのに対し、新人の場合は1回当たり300円程度である。最初だけなので積極的にこなすべし。

・新規配達員はとにかく稼げる

 上記の紹介キャンペーンや新人クエストにより、最初はかなり高時給で働ける。たとえば、最初の50回について、基本収入とクエスト、紹介キャッシュバック70000円で、配達一件あたり2000円、一時間平均3件で時給6000円以上である。新人は優先的に鳴るという真偽不明の噂も含め、新規配達員はとにかく優遇されている。


-------------------- 仕事開始後のTIPS ----------------------


・いつ稼働するのが稼ぎやすいか

 いつどこで注文の数が増えるのかを予測することはある程度できるが、自分以外に無数にいる配達員もそうした予測を織り込み済みで動くので(効率的市場仮説のようなもの)、自分に依頼(リクエスト)が来るかどうか(いわゆる「鳴る」かどうか)を予測することはかなり困難。ただ、大まかには平日より休日が鳴りやすく(ただし平日昼はオフィス街が吉)、昼食と夕食時も鳴りやすいので、一日二~三時間の人は休日やピーク時間帯に稼働すると効率的。
 その他、(1)都心と僻地。一長一短だが、やはり安定しているのは都心。(2)昼間と夜間。昼間はファストフードの近距離ドロップ、夜間は個人経営レストランなどの遠距離ドロップが増える傾向にある。

・保険について

 ウーバーによって自動的に保険がかけられ、配達中の対人・対物事故、および自身の傷害が補償される。「配達中」というのは、リクエストを受けてから配達完了するまで。それ以外の時間帯は補償されない。

・カロリー消費とハンガーノック対策

 ごく普通の自転車を普通のスピードで漕ぎ続けたとして、一時間あたり300~400kcalを消費する。ダイエットしたい人にはいいが、ハンガーノック対策は万全に。(僕は砂糖とクエン酸でエネルギードリンクを自作)

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・自転車とバイク

 売上報告を見ていると、額面上はやはりバイクに軍配が上がるようである。しかし、システム上、バイクにはロングピックやロングドロップが回ってきやすいようになっていて、インセンティヴとしてブーストではなくクエストが主体の現在、一回一回の配達に時間がかかる分やりにくいという声もある。
 自転車のメリットは、小回りが利くこと。メンテナンス費用が比較的安いこと。駐禁などの交通違反のリスクが無いこと。ショート案件で回数を稼ぎやすいこと。クエストだけ拾っていくスタイルなら自転車でも可。
 バイクのメリットは、ロングドロップで距離が稼げること。疲れにくいこと。長時間やるならバイク。

・配達員のデータ

応答率・・・依頼が来た時に拒否せず引き受けた比率
キャンセル数(商品ピック前)・・・依頼を引き受けてから何らかの理由で商品ピック前にキャンセル
キャンセル数(商品ピック後)・・・依頼を引き受けてから何らかの理由で商品ピック後にキャンセル
評価・・・お店及び注文者からのGOOD評価の比率

 これらのデータが配車にどう関係しているかは明らかではない。ただし、ピック後のキャンセルと評価はゴールドパートナーの認定に関わる。また、キャンセル数が上がるとアカウント停止の可能性あり。特に商品ピック後のキャンセルは数回でアカウント停止の可能性あり。
 効率良く配達を続けるにはロングピックに対して拒否ボタンをうまく使うのも大事。ただし、応答率と配車の関係も不明。
 配達員に落ち度が無くてもBAD評価をもらうことは必ずある。お店の梱包の不備のせいで料理がこぼれて破損BAD、お店で待たされたことによる遅延BAD、理由の分からない謎BAD等々、いわゆる理不尽BAD。BADは運営に言っても覆らない。

・配車アルゴリズム

 基本的に配車アルゴリズムは明かされていない。確かなのは自転車登録者よりバイク登録者にロングピック・ロングドロップが割り振られやすい、ということくらい。

・雨の日

 天気予報の雨量に基づいて1配達当たり100円~300円程度のインセンティヴ(ボーナス)がつく。インセンティヴがついても、雨の日は配達員が減り、注文が増え、結果的に依頼は増える。配達員が少ないからかロングピックが多くなる。注文者さんから労いのGOOD評価をもらえる確率が高くなる(体感で晴れの日の2倍~3倍)。

・ダブルピック(二件同時配達)

 1つの依頼を受けた後、その商品をピックするまでに、同じお店から重ねてもう1つ別の依頼があることがある。ダブルピック(二件同時配達)と呼ばれる。配達員は2つの商品を受け取って、それぞれ別の場所に届ける。2つの届け先は互いに近いこともあれば、お店から見て真逆のこともある。どちらを先に運ぶかはAIが決める。後になったほうの届け先は、配達予定時刻から大幅に遅延するが、注文者が支払う配達料は変わらない。したがって、事情がよくわからない注文者からは遅延によるBAD評価をもらう確率が高くなる。
 ダブルピックを受けるか否かは、配達員が決められる。よく鳴っているときや雨の日はあえてダブルピックを受けないほうが注文者さんに迷惑をかけずに済み、したがってBAD評価のリスクも抑えられる。
 新人さんで1件ずつ落ち着いてやりたいという人は、1つ依頼を受けた後に「依頼の受付を停止する」ボタンを押しておくとダブルが鳴って混乱することはない。

・ネット速度

 スマホのインターネット通信速度によって依頼が多くなったり少なくなったりということは聞かない。自分のデータ通信(楽天モバイル)は普段1Mbps、12:00-13:00と18:00-19:00は300kbpsだが、特に不利になった覚えはない。300kbpsの時はピック完了を押してすぐにマップ上の配達先のピンが立たない、という現象があるくらい。

・ゴールドパートナー

 四半期ごとに、幾つかの条件を満たすとゴールドパートナーとして認定され、10000円分のクーポン券がもらえたりなどする。ゴールドパートナーであることによる配車上のアドバンテージは特に明示されていない。

・ウーバーイーツ必勝法

 事故を起こさないこと。





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